人間は堕ちなければならない?【喫茶風見鶏】
ジャズ喫茶「風見鶏」の重い木製のドアを押すと、カウベルが小さく乾いた音を立てた。
店内に足を踏み入れた青年は、キョロキョロと辺りを見回した。テーブル席にも、奥のソファーにも人影はない。自分以外の客がいないことを確認すると、青年はほっと胸を撫でおろし、いつものカウンターの端の席へと腰を下ろした。
スピーカーからは、柔らかく煙るようなジャズの旋律が流れている。
「 マスター、いつもの」
青年が声をかけると、カウンターの奥で白髪のマスターが静かに頷いた。豆を挽き、丁寧に湯を注ぐ手つきには長年の無駄のない美しさがある。コーヒーが淹れ上がるのを待つこの静寂の時間が、青年は嫌いではなかった。
やがて、芳醇な香りと共にカップが目の前に置かれる。そして、マスターがいつものように穏やかな声で問いかけてくれた。
「最近、どんな本を読みました?」
この質問をされるのが、青年は嬉しくてしょうがなかった。待っていましたと言わんばかりに、青年は少し胸を張り、自慢気に答える。
「坂口安吾の『堕落論』を読みましたよ」
マスターは手元を止め、柔らかく微笑んだ。
「坂口安吾ですか。どうです、面白かったですか?」
実は青年は頭が悪く、正直なところ本を読んでも大して意味を理解してはいない。だから、照れ隠しも含めていつものように笑って答える。
「全然、よくわからなかったですね」
そう言うと、マスターも楽しそうに「ふふ」と笑ってくれた。このやり取りだけで、青年の心はすっと軽くなる。マスターは杯を拭きながら、かみ砕くように教えてくれた。
「人間は堕ちるもので、堕ちきって初めて本当の人間になる……確か、そんな話だった気がしますね」
マスターの言葉を聞いて、あれこれと思いを巡らせるのが青年の一番の楽しみだった。青年は真剣な顔つきをして尋ねてみる。
「じゃあ……皆、ニートになった方がいいのかな?」
マスターは否定も肯定もせず、ゆっくりと思いを言葉に乗せる。
「坂口安吾は、当時の社会規範や『世の中のこれが正しい人間だ』という常識に対して、疑問符を投げかけた人だと思いますよ。だから、安吾からしたら、ニートすらも肯定したんじゃないですかね」
青年は腕を組み、考え込む振りをした。
「だったら……自分もニートになってみようかな」
マスターはいつもの穏やかな笑顔を崩さずに言った。
「いいんじゃないですか? ニートになって初めて見える景色もあるでしょう」
その言葉に、青年はわざとらしく小さなため息をつきながら言ってみせた。
「そんな良いものじゃないでしょ」
マスターは青年の本当の事情など何も知らずに、楽しそうに笑う。
「そうですね」
——マスターは知らない。青年が随分前からニートをしているということを。
自分がニートであることを隠しながら、こうしてマスターと世間話をし、自分の存在をどこかで肯定してもらう。それが青年の密かな救いだった。
ふと思い立ったように、青年はカップを手にしたまま尋ねた。
「マスター、もし坂口安吾に会ったら、マスターなんて言います?」
マスターは困ったように目元を緩め、頭を軽く振った。
「私なんてそんな偉い考えを持っている人間ではありませんからね……そうですね、もし会えるなら、ひとつ『禅語』を紹介するでしょうか」
青年は首をちょこんと傾げた。
「禅語?」
「ええ。『日日是好日』……あるいは、『無一物』という言葉もありますが、安吾さんには『応無所住而生其心』という言葉を贈りたくなるかもしれませんね」
「おうむ……なんですか、それ?」
「『心をとどめることなく、あるがままに心を生じさせよ』という意味です。つまり、『人間は堕落しなければならない』と答えを強く握りしめてしまった段階で、人間はまた別の規範に縛られ、視野が狭くなってしまうんですよ。堕ちてもいいし、生き直してもいい。もっと自然でいいんじゃないですか、と。私はそう安吾さんに言うと思いますよ」
『堕落しなければならない』という答えすらも手放して、ただ自然に生きればいい——。
青年は、自分が一番聞きたかった言葉を聞き出すことに成功した。胸の奥につかえていた重荷が、すーっと溶けていくのが分かった。
落ち着いた気持ちで口に含んだコーヒーは、苦味の中に確かな甘みを感じさせた。
店内に流れるジャズの音が、いつも以上に心地よく耳に届いていた。




