僕を褒めないで【喫茶風見鶏】
ガラリと音を立ててドアが開くと、ジャズの柔らかなサックスの音色に重なって、からんと真鍮のドアベルが涼やかな音を鳴らした。
ジャズ喫茶「風見鶏」。
カウンターの奥では、白い髪を綺麗に整えたマスターが、静かにネルドリップの粉を湿らせているところだった。
「いらっしゃい」
カウンターの端の席に腰を下ろした青年は、どこか肩をすくめ、顔には色濃い疲労感を滲ませていた。この春から社会人になったばかりの常連客だ。
「……マスター、いつもの」
「はいよ」
マスターは温めたカップに黒い液体を注ぎ入れ、青年の前にそっと置いた。
「どうだい、仕事は。なんだか随分と疲れた顔をしているじゃないか。大丈夫かい?」
湯気の向こうで、青年は深いため息を吐き出し、ぽつりと漏らした。
「……マスター。みんながみんな、僕を操作しようとしてくるんです」
「操作?」
マスターは手元を止め、首をかしげた。青年は一口コーヒーを含んでから、溜め込んでいたものを吐き出すように語り始めた。
「職場の人たちが、やたらと僕を褒めてくるんですよ。『今日の資料作成、筋がいいね』とか『気の利いたフォロー、助かったよ』とか。一見すると親切ですけど……僕には分かるんです」
「褒められるのが、そんなに嫌なことかい?」
そう尋ねるマスターに、青年は待っていましたと言わんばかりに得意気な顔を作ってみせた。
「マスター、アドラー心理学って知ってますか? アドラーは言っているんです。『褒める』という行為は、能力のある者が能力のない者に対して行う『上から下への行為』であり、相手を自分の思い通りにコントロールしたいという意図が含まれている、と」
マスターはふむ、と顎を撫でた。
「なるほどねぇ。じゃあ例えばだけど、小さな子どもに『お兄ちゃん、すご〜い!』って目を輝かせて言われたら、それも上から目線の操作なのかい?」
「違いますよ」
青年は即座に首を振った。
「それはアドラーの言う『褒める』じゃないんです。憧れや感動の表現であって、他人を操作しようとする意図が含まれている言葉こそが、アドラーの言う『褒める』なんですよ」
それを聞いたマスターは、静かな目で青年を見つめ、優しく問いかけた。
「じゃあ……職場で君が言われているその言葉は、どっちなんだい?」
「え……」
青年は言葉を詰まらせた。
ハッとしたように目を見開き、一瞬思考が止まる。職場の先輩や上司の顔が脳裏をよぎる。彼らは本当に自分を意のままに操ろうとして言っていたのだろうか。それとも、ただ純粋に労い、喜んでくれていただけなのだろうか。
「でも……!」
青年は自分の論理を守ろうと、むきになって言葉を継いだ。
「人間はみんな『横の関係』であるべきなんです! 上司だの部下だの、上下関係なんてあるべきじゃないんですよ!」
マスターは否定も肯定もせず、穏やかに頷いた。
「確かにね。人間に本質的な上下なんてものは存在しないよ。……みんな、ロールプレイをしているだけだからね」
「ロールプレイ……ですか?」
「そうさ。社会で生きていくために、みんな何かしらの役割を演じているだけなんだよ。上司という役割、部下という役割、店主という役割、客という役割……。社会を円滑に回すための『役割』と、その人の『本質』は別物だろ?」
青年は毒気を抜かれたように視線を落とした。
「役を演じているだけ……。確かに、そうなのかもしれません……」
すっと肩の力が抜けた青年を見て、マスターはカウンターの拭き掃除をしながら、少し照れくさそうに微笑んだ。
「お節介かもしれないけれど、君にひとつ言葉を贈るよ。禅の言葉でね、『莫妄想』というのがあるんだ」
「まく……もうぞう?」
「そう。アドラーのようなお偉い学者の考えは私にはよく分からないがね。人間、頭の中で自分で勝手に物語を作り上げて、その物語に自分自身が苦しめられることがある。そんな時はね、ただ『妄想するなかれ』だ。自分で勝手に作ったその物語を、その場で捨て去ってしまえばいいんだよ」
青年は自分の胸に手を当て、呟いた。
「僕……自分で勝手に『操作されている』なんて物語を作って、考えすぎていただけなのかな」
「たまには何も考えず、目の前にあるものをそのまま、ありのままに受け取ることも大事だと思うよ。そのコーヒーだって、深読みせずに飲んだ方が美味しいだろ?」
青年はハッとして、自分の手元にあるカップを見つめた。
そしてゆっくりと口へ運び、味わうように飲み干した。
「……すごく、美味しいです」
そう言った青年の顔からは、店に入ってきた時の陰りがすっかり消え去っていた。
「ごちそうさまでした、マスター」
伝票を手にお釣りを払うと、青年は晴れやかな表情でカバンを担ぎ直した。
「またおいで」
マスターの温かい声に見送られ、からんとドアベルを鳴らして外へ出た青年の背中に、秋の夕暮れ時の優しい風が吹き抜けていった。




