↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
禅語何それ美味しいの?  作者: 夕暮れの家


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
70/81

多様性について【喫茶風見鶏】

 街の喧騒から少し離れた路地の奥に、ひっそりと佇む喫茶店があった。

 真鍮製のドアノブの上には、カランと静かな音を立てる鈴と、木彫りの風見鶏が掲げられている。店の名は『風見鶏』。


「いらっしゃい」


 カウンターの奥でネルドリップを構えていた白髪混じりのマスターが、静かな声で迎えた。


 店内に入ってきた若い青年は、疲れ切った顔をしていた。コートも脱がずにカウンターの端の席へ滑り込むと、浅い息を吐きながら頭を抱え込んだ。


 マスターは何も言わず、湯気を立てるお湯を細く細く、挽きたての豆へと注ぎ落としていく。店内に香ばしい苦みが満ちていく。やがて、分厚い陶器のカップに並々と注がれたコーヒーが、少年の前に静かに置かれた。


「深煎りのマンデリンです。少し心が散らかっている時には、重めの味が効きますよ」


 青年はカップを両手で包み込んだ。その温もりに縋るように、ぽつり、ぽつりと呟き始めた。


「……僕、たぶんADHDなんです。いや、病院で診断を受けたわけじゃないんですけど、SNSのチェックリストを見ても、自己啓発本を読んでも、全部当てはまる。集中力が続かないし、感情は乱れるし、仕事もケアレスミスばかりで……」


 青年は自嘲気味に笑った。


「世間は『多様性を認めよう』とか『個性を尊重しよう』って言いますよね。でも、いざ自分が『ADHD』っていうラベルを貼られると、救われるどころか、自分がただの『欠陥品という分類』に押し込められた気がするんです。世の中にはいろんなラベルが増えたけど、結局どこに行っても『〇〇な人』って枠に分けられるだけじゃないですか。多様性って、一体何なんですかね」


 マスターはネルフィルターの手入れをしながら、静かに耳を傾けていた。そして、青年の前に置いたコーヒーの表面を指差した。


「多様性、ねぇ」


 マスターは穏やかな目で青年を見た。


「世間が言っている多様性というのはね、実は『新しい箱(ラベル)を増やした』だけに過ぎないことが多いんですよ。人間という複雑で割り切れない存在を、そのまま受け止めるのは脳にすごく負担がかかる。現代人はみんな疲れていますからね。だから企業もメディアも、そして自分自身ですら、分かりやすい『ラベル』を貼って一瞬で理解した気になりたいんです。タイパが良いですから」


「理解した気になる……」


「ええ。『あなたはADHDだからこうだ』『あの人は〇〇系だからこうだ』。そうやって分類して箱に入れれば、分かった気になって安心できるし、コンテンツとしても消費しやすい。でも、どれだけ箱の種類を増やしたところで、それはあなたという人間そのものを見ていることにはならない。人は箱の中に納まるほど単純な生き物ではありませんから」


 青年は深く息を吐き出し、コーヒーを一口すすった。重厚な苦みとほのかな甘みが、胃の腑へと温かく落ちていく。


「でも、世間は一貫性や明確な答えを求めてきます。昨日言ったことと今日言ったことが違えば『矛盾している』と責められる。自分の内側にある衝動や揺らぎに従おうとすると、社会からあふれ出してしまう気がするんです」


「人間なんてものはね、日々に変化し、矛盾を抱えて生きているのが当たり前なんです」


 マスターは棚から一冊の古びた和綴じの本を取り出し、カウンターの上に軽く置いた。


「昔の禅僧に、雲門(うんもん)という人がいましてね。彼が残した言葉に『日日是好日(にちにちこれこうじつ)』という有名なものがあります」


「聞いたことがあります。『毎日が良い日だ』という意味ですよね?」


「表面上はそうです。ですが、禅の本当の意図はもう少し深い。雨の日もあれば風の日もある。心が晴れやかな日もあれば、どうしようもなく乱れて支離滅裂になる日もある。その『良い・悪い』や『自分はこうあるべきだ』という勝手なラベル貼りをすべて手放して、今この瞬間のありのままの自分と状況を、ただただそのまま受け入れる。それが『好日』ということなんです」


 マスターは青年の目をまっすぐに見つめた。


「ADHDだろうが、一貫性がなかろうが、今日と明日で考えが変わろうが、それはあなたが生きている証拠だ。世間が貼ってくるラベルも、自分が自分に貼ってしまうラベルも、一度すべて剥がしてごらんなさい。あなたは何か特定の箱に入る必要なんてない。ただ、今そこにいる『割り切れないあなた』のままでいればいいんですよ」


 青年はハッとしたように目を見開いた。


 窓の外では、冷たい風が街路樹を揺らしている。風見鶏がカチリと音を立てて向きを変えた。風の向くままに、どこを指すでもなく。


 青年はもう一度、温かいカップを引き寄せた。

 胸の奥でつかえていた重苦しい塊が、コーヒーの湯気とともにゆっくりと溶けていくのを感じていた。


「……もう一杯、同じものをいただけますか」


「はい、喜んで」


 マスターが再びケトルを手に取る。カランと鈴が鳴り、風見鶏の下を、また新しい風が吹き抜けていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。