多様性について【喫茶風見鶏】
街の喧騒から少し離れた路地の奥に、ひっそりと佇む喫茶店があった。
真鍮製のドアノブの上には、カランと静かな音を立てる鈴と、木彫りの風見鶏が掲げられている。店の名は『風見鶏』。
「いらっしゃい」
カウンターの奥でネルドリップを構えていた白髪混じりのマスターが、静かな声で迎えた。
店内に入ってきた若い青年は、疲れ切った顔をしていた。コートも脱がずにカウンターの端の席へ滑り込むと、浅い息を吐きながら頭を抱え込んだ。
マスターは何も言わず、湯気を立てるお湯を細く細く、挽きたての豆へと注ぎ落としていく。店内に香ばしい苦みが満ちていく。やがて、分厚い陶器のカップに並々と注がれたコーヒーが、少年の前に静かに置かれた。
「深煎りのマンデリンです。少し心が散らかっている時には、重めの味が効きますよ」
青年はカップを両手で包み込んだ。その温もりに縋るように、ぽつり、ぽつりと呟き始めた。
「……僕、たぶんADHDなんです。いや、病院で診断を受けたわけじゃないんですけど、SNSのチェックリストを見ても、自己啓発本を読んでも、全部当てはまる。集中力が続かないし、感情は乱れるし、仕事もケアレスミスばかりで……」
青年は自嘲気味に笑った。
「世間は『多様性を認めよう』とか『個性を尊重しよう』って言いますよね。でも、いざ自分が『ADHD』っていうラベルを貼られると、救われるどころか、自分がただの『欠陥品という分類』に押し込められた気がするんです。世の中にはいろんなラベルが増えたけど、結局どこに行っても『〇〇な人』って枠に分けられるだけじゃないですか。多様性って、一体何なんですかね」
マスターはネルフィルターの手入れをしながら、静かに耳を傾けていた。そして、青年の前に置いたコーヒーの表面を指差した。
「多様性、ねぇ」
マスターは穏やかな目で青年を見た。
「世間が言っている多様性というのはね、実は『新しい箱を増やした』だけに過ぎないことが多いんですよ。人間という複雑で割り切れない存在を、そのまま受け止めるのは脳にすごく負担がかかる。現代人はみんな疲れていますからね。だから企業もメディアも、そして自分自身ですら、分かりやすい『ラベル』を貼って一瞬で理解した気になりたいんです。タイパが良いですから」
「理解した気になる……」
「ええ。『あなたはADHDだからこうだ』『あの人は〇〇系だからこうだ』。そうやって分類して箱に入れれば、分かった気になって安心できるし、コンテンツとしても消費しやすい。でも、どれだけ箱の種類を増やしたところで、それはあなたという人間そのものを見ていることにはならない。人は箱の中に納まるほど単純な生き物ではありませんから」
青年は深く息を吐き出し、コーヒーを一口すすった。重厚な苦みとほのかな甘みが、胃の腑へと温かく落ちていく。
「でも、世間は一貫性や明確な答えを求めてきます。昨日言ったことと今日言ったことが違えば『矛盾している』と責められる。自分の内側にある衝動や揺らぎに従おうとすると、社会からあふれ出してしまう気がするんです」
「人間なんてものはね、日々に変化し、矛盾を抱えて生きているのが当たり前なんです」
マスターは棚から一冊の古びた和綴じの本を取り出し、カウンターの上に軽く置いた。
「昔の禅僧に、雲門という人がいましてね。彼が残した言葉に『日日是好日』という有名なものがあります」
「聞いたことがあります。『毎日が良い日だ』という意味ですよね?」
「表面上はそうです。ですが、禅の本当の意図はもう少し深い。雨の日もあれば風の日もある。心が晴れやかな日もあれば、どうしようもなく乱れて支離滅裂になる日もある。その『良い・悪い』や『自分はこうあるべきだ』という勝手なラベル貼りをすべて手放して、今この瞬間のありのままの自分と状況を、ただただそのまま受け入れる。それが『好日』ということなんです」
マスターは青年の目をまっすぐに見つめた。
「ADHDだろうが、一貫性がなかろうが、今日と明日で考えが変わろうが、それはあなたが生きている証拠だ。世間が貼ってくるラベルも、自分が自分に貼ってしまうラベルも、一度すべて剥がしてごらんなさい。あなたは何か特定の箱に入る必要なんてない。ただ、今そこにいる『割り切れないあなた』のままでいればいいんですよ」
青年はハッとしたように目を見開いた。
窓の外では、冷たい風が街路樹を揺らしている。風見鶏がカチリと音を立てて向きを変えた。風の向くままに、どこを指すでもなく。
青年はもう一度、温かいカップを引き寄せた。
胸の奥でつかえていた重苦しい塊が、コーヒーの湯気とともにゆっくりと溶けていくのを感じていた。
「……もう一杯、同じものをいただけますか」
「はい、喜んで」
マスターが再びケトルを手に取る。カランと鈴が鳴り、風見鶏の下を、また新しい風が吹き抜けていった。




