遺伝的に適正がない!どうしたら・・・
春の雨が静かに降る夜だった。
十八歳の青年、勇斗は商店街の外れにある小さな喫茶店「風見鶏」の扉を開いた。
「いらっしゃい」
白髪混じりのマスター、藤堂が穏やかに微笑む。
勇斗はカウンターに座るなり、深いため息をついた。
「どうした、若いのに世界が終わったみたいな顔して」
「終わったんです」
「ほう」
「僕、画家になりたかったんです」
藤堂は黙ってグラスを磨く。
今の時代、六歳になると全員が遺伝子適性検査を受ける。
運動能力、空間認識、集中力、言語能力、音感、記憶力。
膨大なデータから「向いている分野」が示される。
勇斗の結果は平均的だった。
芸術適性は低い。
教師も親も、
「趣味ならいいけど、仕事にするのは難しい」
そう言った。
だが勇斗は絵が好きだった。
誰よりも好きだった。
それでも十八歳になり、美術大学を目指すと言ったとき、進路相談の先生からこう言われた。
「遺伝子的には適性がない。時間を無駄にするかもしれない」
友人たちも、
「データには逆らえないよ」
と口を揃えた。
勇斗は拳を握った。
「努力で覆せるなんて古い精神論ですよね。遺伝で三割から六割決まるなら、僕には無理なんです」
藤堂は少し笑った。
「三割から六割なら、残り四割から七割もあるじゃないか」
「でも…」
「それに、遺伝子検査は得意になりやすさを教えてくれるだけで、人生を決める判決書じゃない」
勇斗は黙った。
藤堂は棚から古びた本を取り出した。
「禅の言葉でな。『無事是貴人』という」
「無事…?」
「特別な何者かにならなくてもいい。今の自分、そのままが尊いという意味だ」
勇斗は苦笑した。
「慰めですか?」
「いや」
藤堂は首を振った。
「画家になれるかどうかなんて、わしには分からん。君が大成するかもしれんし、途中で別の道に進むかもしれん。そんなこと誰にも分からん」
そして、少しだけ声を柔らかくした。
「だがな。絵を描きたいという心を持った君自身は、結果に関係なく尊い」
「…」
「やれるだけやってみればいい」
「失敗したら?」
「失敗した自分を知れる」
「才能がなかったら?」
「才能がなかった自分を知れる」
「諦めることになったら?」
「諦めた自分を知れる」
藤堂は笑った。
「人間、自分を知るのに無駄な道なんてない」
「でも、怖いです」
「当然だ」
「時間を失うかもしれない」
「時間は何をしても過ぎる」
「周りに笑われるかもしれない」
「笑う人はいるだろうな」
「結果が出なかったら?」
「それもある」
藤堂はグラスに水を注いだ。
「だがな、やりもしないで『向いていなかった人生』と、『やってみて向いていなかった人生』は、同じようで違う」
勇斗は水面を見つめた。
「違いますか?」
「前者には想像しかない。後者には経験が残る」
店内にジャズが流れる。
しばらくして勇斗は小さく笑った。
「遺伝子検査、嫌いなんです」
「便利なものだよ」
「でも縛られる」
「地図は便利だが、歩くのは自分だ」
「…」
「地図にない道を歩いた人間が、あとで地図を書き換えることもある」
勇斗は初めて顔を上げた。
「マスターは、僕が画家になれると思いますか?」
藤堂は即座に答えた。
「分からん」
「え?」
「わしは占い師じゃない」
二人で笑った。
「ただな」
藤堂はカウンター越しに言った。
「君が絵を描きたいなら、描いてみればいい」
「それだけ?」
「それだけだ」
「ずいぶん無責任ですね」
「人生なんて、本人しか責任を取れんからな」
勇斗は窓の外の雨を見た。
小さい頃から描き続けてきた絵。
上手くなりたくて、夢中で描いていた時間。
誰かに認められる前に、好きだった。
その気持ちはまだ消えていない。
「やれるだけやってみます」
「うむ」
「それで自分を知ってみます」
「うむ」
藤堂は静かに微笑んだ。
「無事是貴人だ」
「特別になれなくても?」
「特別になっても」
「成功しても?」
「失敗しても」
「画家になっても?」
「ならなくても」
「僕は僕でいい?」
「そうだ」
雨はいつの間にか止んでいた。
勇斗は立ち上がり、店を出る。
未来はまだ分からない。
才能があるのかも分からない。
成功するかも、しないかもしれない。
けれど、分からないからこそ歩ける道がある。
夜空に雲の切れ間が見えた。
その先に星があるのかどうかは、まだ見えない。
それでも彼は、顔を上げて歩き始めた。
自分が何者なのか。
それは、遺伝子の紙切れが決めるものではなく、歩いた先で少しずつ知っていくものなのかもしれなかった。
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