電脳チップ作家の悩み
雨の降る夕方だった。
商店街の外れにある喫茶店「風見鶏」の窓を、細かな雨粒が叩いている。
店の奥の席で、一人の青年が冷めたコーヒーを見つめていた。
名は悠真。二十歳。
デビューからわずか一年でベストセラー作家となった若き小説家だ。
だが今、彼は深刻な悩みを抱えていた。
「マスター、どう思います?」
カウンターの向こうでカップを磨いていた老人が顔を上げた。
「何がだい?」
「僕の小説です」
悠真はスマホをテーブルに置いた。
そこにはSNSの画面が映っていた。
『電脳チップ作家の小説なんて読む気がしない』
『AIに書かせてるんじゃないの?』
『人間らしさがない』
『応援してたけど失望した』
そんな言葉が並んでいる。
半年前まで絶賛されていた作品だった。
内容は変わっていない。
文章も物語も同じだ。
変わったのは一つだけ。
悠真が最新型の電脳チップを脳に埋め込んでいることを公表したことだった。
「売れなくなったんです」
悠真は苦笑した。
「名作だって言われてたのに」
マスターは静かにコーヒーを注いだ。
「それで?」
「それでって?」
「君はどう思ってるんだ」
悠真は少し考えた。
「理不尽だと思います」
「なぜ?」
「作品は作品でしょう。僕がどんな人間かなんて関係ないはずです」
マスターは笑った。
「本当にそうかな」
悠真は眉をひそめた。
「違うんですか?」
「君は本を読むとき、作者のあとがきを読まないかい?」
「読みます」
「画家の生涯を知ると絵の見方が変わらないかい?」
「それは……変わります」
「作曲家の人生を知ると曲の聴こえ方が変わらないかい?」
悠真は黙った。
変わる。
確かに変わる。
失恋の経験を知ればラブソングは切なく聞こえる。
苦難の人生を知れば絵画に込められた感情が見えてくる。
自分だってそうだった。
「でも、それは作品の理解が深まるだけです」
悠真は反論した。
「作品の評価とは別じゃないですか」
「本当に別かな」
マスターは窓の外を見た。
雨脚が少し強くなっている。
「人は作品だけを見ていると思うかい?」
「そうあるべきです」
「そうあるべきと、そうであるは違う」
その言葉に悠真は返せなかった。
マスターは続けた。
「昔から人は作者を見ていたんだよ」
「でもSNSはなかったでしょう」
「なかったね。だから想像していた」
「想像?」
「この作家はどんな人だろう。この画家は何を思って描いたのだろう。人は昔から作品の向こう側にいる誰かを見ようとしていた」
悠真は窓に映る自分を見た。
「じゃあSNSは?」
「想像していたものが見えるようになっただけさ」
その言葉に、悠真は少しぞっとした。
確かにそうかもしれない。
昔は作者の人格が見えなかった。
今は見えすぎる。
朝何を食べたか。
誰と喧嘩したか。
何に怒り、何に喜ぶか。
作品の向こう側にいた人間が、作品の前に現れるようになった。
「じゃあ、もう駄目じゃないですか」
悠真はため息をついた。
「人は結局、作品と作者を混ぜて見るんでしょう?」
「そうだろうね」
マスターはあっさり認めた。
「じゃあ僕は終わりです」
「なぜ?」
「だって僕は電脳チップを入れてる」
悠真は自嘲気味に笑った。
「これから先もずっと言われますよ。人間じゃないとか、AIみたいだとか」
マスターはしばらく黙っていた。
やがて静かに尋ねた。
「君はなぜ小説を書き始めたんだい?」
「え?」
「有名になるため?」
「違います」
「お金のため?」
「違います」
「じゃあ?」
悠真は少し考えた。
遠い記憶が蘇る。
中学生の頃。
図書館の隅で読んだ一冊の小説。
その物語に救われた夜。
自分も誰かに何かを届けたいと思った日。
「物語が好きだったからです」
「それだけかい?」
「誰かに届いてほしかった」
「そうだろうね」
マスターは微笑んだ。
「それならまだ終わってない」
悠真は首を傾げた。
「どういう意味です?」
「人は作品と作者を混ぜて見る」
「そうです」
「だが全部を混ぜているわけじゃない」
悠真は黙って聞いた。
「例えば君が百人に嫌われたとしても、その百人全員が同じ理由で嫌っているわけじゃない」
「……」
「逆に百人に好かれたとしても、百人全員が同じところを好きなわけじゃない」
雨音だけが聞こえる。
「人は作者を見る。確かに見る」
マスターは続けた。
「だが同時に作品も見ているんだ」
「本当に?」
「本当に」
老人は迷いなく言った。
「作品しか見ない人もいる。作者しか見ない人もいる。両方見る人もいる」
「……」
「人間はそんなに単純じゃない」
悠真は少しだけ顔を上げた。
マスターは笑っていた。
「だから君は全員に好かれようとしなくていい」
「でも売れなくなったんですよ」
「それでも読んでくれる人はいるだろう?」
悠真は思い出した。
昨日届いた読者からの手紙。
『電脳チップのことはよくわかりません。でもあなたの小説が好きです』
短い一文だった。
だが不思議と嬉しかった。
「いるかもしれません」
「いるさ」
マスターはコーヒーカップを置いた。
「君は今、人は作品と作者を分けて考えられないと絶望している」
「はい」
「でもね」
老人は穏やかに言った。
「分けて考えられないからこそ届くものもあるんだよ」
悠真は顔を上げた。
「苦しみながら書いた物語が誰かを救うことがある。優しさから生まれた言葉が誰かを温めることがある」
マスターは窓の外を見た。
雨は弱くなり始めていた。
「作品と作者が完全に別なら、それは起こらない」
悠真は何も言えなかった。
「人は作品の向こうに人間を見る」
マスターは静かに言った。
「それは怖いことでもある。でも同時に希望でもあるんだ」
店の窓から、小雨の心地よい雨音がした。
「マスター」
「なんだい」
「結局、僕はどうすればいいんでしょう」
老人は少し考えた。
そして棚から一冊の古びた本を取り出した。
「禅にね、『無事是貴人』という言葉がある」
「無事是貴人?」
悠真は首を傾げた。
「ありのままの自分でいる人こそ尊い、という意味さ」
「ありのまま……」
「君は今、電脳チップを入れた自分をどうにか正当化しようとしている。読者に認めてもらおうとしている。作品だけ見てくれと叫んでいる」
悠真は黙った。
図星だった。
「でもね」
マスターは静かに微笑んだ。
「人が君をどう見るかは君には決められない」
窓の外では雨が見えなくなっていた。
「作品を見る人もいる。作者を見る人もいる。どちらも見る人もいる」
「……」
「それはもう君の手の届かないところだ」
悠真はゆっくりうつむいた。
「じゃあ僕にできることは?」
マスターはコーヒーカップを置いた。
小さな音が店内に響く。
「君が君でいることだよ」
「それだけですか」
「それだけだ」
老人は笑った。
「電脳チップを入れた小説家なら、そのまま書けばいい。人間らしくないと言われるなら、その悩みを書けばいい」
そして静かに続けた。
「無事是貴人だ」
「……」
「何者かになろうとしなくていい。誰かに認められようとしなくていい」
夕日が雲の隙間から差し込んだ。
「君はもう十分に、君なんだから」
お読みいただきありがとうございました!




