生きる意味とは?【喫茶風見鶏】
ジャズのレコードが静かに擦れる音と、深煎りコーヒーの香りが漂う店内。ジャズ喫茶「風見鶏」のカウンターで、一人の青年がうつむいていた。
「マスター……人間って、何のために生きてるんでしょうか。生きる意味って、本当にあるのかな」
カウンターの中でグラスを磨いていたマスターは手を止め、ゆっくりと青年を見つめた。
「難しい問いですね。果たして人間に、最初から決まった生きる意味なんてあるのでしょうか」
「意味なんて、最初からないのよ」
不意に声をかけたのは、カウンターの端に座っていた常連の美紀だった。30代半ばの落ち着いた雰囲気を纏い、浅煎りのカップを傾けながら青年へ視線を向ける。
「キリスト教や西洋思想の視点から言えばね、人間は神によって目的を持って創られた存在とされることが多いわ。愛することや、神から与えられた使命を果たすことに『生きる意味』がある、という考え方ね。でもそれって、意味が『外から与えられる』ことが前提でしょう? だから意味を見失うと、途端に虚無感に襲われるの」
美紀はマスターに向き直り、ほほ笑んだ。
「ねえマスター、東洋……禅ではどう考えるの?」
マスターはコーヒーポットを火にかけ直し、穏やかな声で応えた。
「禅には『本来無一物』という言葉があります。本来、固定した自分も、あらかじめ用意された生きる意味も存在しない、という考え方です」
「存在しない……ですか?」
青年が驚いたように顔を上げた。マスターは頷く。
「ええ。意味がないから絶望するのではなく、『白紙だからこそ自由なのだ』と捉えます。私たちは最初から何にも縛られていない。意味は探して『見つける』ものではなく、今この瞬間の行いによって『生み出していく』ものなんです」
青年はしばらく黙り込み、自分の手元を見つめた。
「……僕は、子どもの頃から『面白いことがやりたい』と漠然と思って生きてきました。でも最近、SNSとかで著名な人たちが『世のため人のためになる仕事をしたい』『社会に価値を残したい』って語っているのを見ると、自分の『面白いことがしたい』なんて、すごく浅はかで自分勝手な気がしてしまって……」
美紀がふっと柔らかく笑った。
「それね、ただの『フェーズの移行』よ」
「フェーズ、ですか?」
「そう。著名な人たちも若い頃は『自分が楽しみたい』『自分の力を試したい』一心で走ってきたはずよ。年齢や経験を重ねて自分の欲求が満たされたから、自然と『誰かのためになりたい』っていう次の段階に移っただけ。最初からそんな高尚な目的を持っていたわけじゃないと思うわ。だから、今のあなたの『面白いことがしたい』っていう自分のための生きる意味を否定する必要なんて、どこにもないの」
青年の表情が少し和らいだものの、まだ胸の仕えが下りない様子でマスターに向き直った。
「マスターはどう思いますか? やっぱり、自分の『面白い』を追いかけて生きていってもいいんでしょうか」
マスターは淹れたてのコーヒーを青年の前に静かに置いた。
「禅には『日日是好日』という言葉もあります。晴れの日も雨の日も、その日その日を全身全霊で味わい尽くすことです。『面白いことがしたい』――それはとても素晴らしい純粋なエネルギーですよ。世のためになるかどうかという『結果の評価』にとらわれず、今目の前の『面白い』に心を込めて没頭する。その積み重ねの先にしか、あなたの生きる意味は立ち現れてきません」
マスターは少し目を細めて言葉を継いだ。
「人生の意味なんて、死ぬ間際になって『ああ、面白かったな』と振り返ったときに、初めて一冊の本のように完成するものなのかもしれませんね」
店内には柔らかいサックスの音色が響いていた。
美紀とマスターの言葉が、青年の心の中に静かに染み込んでいく。生きる意味という明確な「正解」を手に入れたわけではない。けれど、探していた重荷の正体が少しだけ見えた気がした。
「……そっか。『正解』を探さなくていいんですね。仮でもいいから、今の自分の『面白い』を抱えて、この問いと一緒に生きてみます」
青年はコーヒーを一口飲み干すと、まっすぐな目で二人を見つめ、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。すごく心が軽くなりました」
「またいつでもいらっしゃい」
「ふふ、良い『面白いこと』が見つかったら教えてね」
勘定を済ませ、青年が「風見鶏」の扉を開ける。表に出ると、澄み渡った秋の空がどこまでも広がっていた。青年は胸いっぱいに空気を吸い込み、晴れ晴れとした足取りで歩き出した。




