099 両軍対峙①
エルド山地を貫く細く険しい山道には、重い足音だけが響いていた。
ヘラクレイオス軍は、エルド山地に入り少しすると補給、徴収という名の略奪ができなくなっていた。
どの村にも、人影は無く、家畜の鳴き声一つ響かない。穀物は綺麗に掻き出され、柵の中にも羊一頭、豚一匹残されていなかった。残されていたのは空っぽになった住居だけであった。
「……どういうことだ」
行軍の先頭に立つエウリュメドンは、枯れた潅木の陰に佇む無人の集落を見据え、乾ききった唇を噛み締めた。
(幾つもの村が、示し合わせたように空になっている。王宮の変乱を恐れて山林へ逃げ隠れたというのなら、これほど徹底して家畜や穀物を運び出せるはずがない。――エリミオンだ。かの地の領主家か、あるいはフィクスがすでに手を回し、意図的に物資を根こそぎ後方へ引き上げたのではないか……?)
もしそうであるならば、こちらの進軍速度も、意図も、すべて筒抜けになっている恐れがある。エウリュメドンは、隣を大股で歩く巨漢の兄へ歩み寄った。
「兄上、どの村も物資も民も綺麗に消えている。エリミオン側がこちらの動きを察知し、事前に手を打っている可能性があります。このまま進むのは危険です」
ヘラクレイオスは身の丈二メートルに及ぶ巨躯を揺らし、眼をぎろりと弟に向けた。野太く地を這うような声が漏れる。
「……可能性なら、余とて否定はせん。だがエウリュメドン、今さら引き返せるとでも思うのか?」
ヘラクレイオスは顎をしゃくり、背後に続く疲れた兵たちの列を指し示した。
「ここまで来て、あの焦土と化したアカイアへ戻れというのか。引き返す道中にも、奪える食糧など残っておらんのだぞ。戻るよりも、このまま前進して山地を抜ける方が遥かに早い。エリミオンの平野に入れば、いくらでも奪える」
これは、一つの合理的な判断ではあることをエウリュメドンは認めざるを得なかった。しかし、エリミオン及びフィクスに対する執着も含まれているとも思う。
ヘラクレイオスは立ち止まり、青銅の長槍の石突を大地に叩きつけると、ついてくる兵たちへ向けて怒号を張り上げた。
「聞け、アカイアの勇士たちよ! この山地を抜ければ、豊かなエリミオンの平野だ! そこには実り多き畑があり、油と麦の詰まった倉があり、肥えた牛や羊が無数に群れている! 山を抜けさえすれば、腹一杯の肉とパンを奪い放題だぞ! あと少しだ、前へ進めッ!」
補給のままならなかった戦士たちの間に、微かなざわめきが起こり、その目に獣じみた欲望の火が灯った。前進すれば生き延びられる、平野へ出れば奪える――その一筋の期待だけが、兵たちの脚を速める。
しかし、その脆い希望が打ち砕かれる瞬間は、あまりに無慈悲に訪れた。
曲がりくねった山道が尽きかけ、前方にエリミオンの平野を望むはずの狭隘な地形――切り立った岩肌に挟まれたペトラオンの隘路へ先鋒が差し掛かったときである。
先頭を行く兵の足が、突如として止まった。後続の兵たちが訝しげに押し寄せ、次々と息を呑み、凍りついたように立ち尽くす。
左右の険しい断崖を繋ぐようにして、谷底の道を完全に塞ぎ切る防衛陣地が、冷然と口を開けていた。
寸法を寸分違わず揃えられた堅牢な木柵が整然と連なり、その前面には空堀と障害となる岩塊、鋭利に削られた逆茂木がその切っ先をヘラクレイオス軍に向いている。木柵の向こうには、陽光を照り返す青銅の長槍の穂先が密林のように林立し、中央にはエリミオン領の旗が、谷間の風を孕んで翻っていた。
そこにあるのは、行き当たりばったりの防備などではない、迎撃の意思を示す壁であった。
「……な、何だ、これは……」
一人の兵の手から滑り落ちた槍が、力なく小石混じりの地面へと倒れ、乾いた金属音を立てた。
山地を抜ければ豊かな平野で略奪ができると信じ、最後の気力を振り絞って辿り着いた戦士たちの目の前に立ちはだかったのは、補給もなく疲れ切った自分たちを圧する盤石な迎撃陣地であった。
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ペトラオン防衛陣地の櫓から、フィクスは山裾に姿を現したヘラクレイオス軍の先頭を見下ろしていた。
山地出身の傭兵たちから逐次届いていた報告通り、敵の隊列は伸び、足並みも乱れている。隣に立つリュコメデスが、腕を組みながら険しい眼差しでその惨状を射抜いていた。
フィクスの側には、頭の天辺から爪先までを鈍青銅の装甲で固めた巨躯の戦士が、彫像のように微動だにせず侍している。
陣地では、各将官たちがすでに配下の部隊を各持ち場へ配置し終えていた。
やがて、防衛陣地前方から、腹の底に響くような野太い声が山あいに向けて放たれた。
「我らはエリミオン軍守備隊である! 貴方がたは何者か!」
切り立った岩肌にその声が反響し、呆然と立ち尽くしていたヘラクレイオス軍の兵たちに届く。
しばらくの、息の詰まるような沈黙が流れた。
やがて、敵軍の前方から、一人の武官が声を張り上げて応じた。
「我らは、アカイア王国軍である! ヘラクレイオス王を奉じ、ここに至った! ――エリミオン領への入領を許されたい!」
その言葉が落ちるや、防壁の上から即座に、返答が返された。
「貴軍の入領については、直ちには応じかねる! まずは、話し合いのため、代表者を立てられたい!」
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自軍の天幕の前で、ヘラクレイオスは苛立ちを露わにした。
「アカイア王国軍であるというのに、なぜに受け入れぬのだ! 辺境の分際で、この余を門前払いにする気か!」
地鳴りのような怒声に対し、エウリュメドンは顳かみを押さえ、冷ややかに溜息をついた。
「仕方がないでしょう、兄上。これだけの武装集団を無条件に領内へ入れろと言って、平然と迎え入れる領主がどこにいますか。警戒されて当然です」
「余はアカイアの正統なる王だぞ! 臣下が主君を迎えるのに、何の警戒がいるというのだ!」
「今の私たちは、王宮を失い、途中の寒村を荒らし回ってきました。彼らから見れば餓狼の集まりでしょう」
エウリュメドンは声を低くし、兄の正面に立ちふさがった。
「よく見てください、あの陣地を。寸法を揃えた堅牢な柵、空堀、逆茂木、整然と並ぶ槍衾……あれは昨日今日で慌てて作ったものではありません。しかも、我らの兵を見てください。飢え、山越えで疲労しています。対して、恐らく相手方は十分な補給を受け、交代の兵員も用意しているでしょう、万全の態勢です。……力尽くではどうにもなりません」
ヘラクレイオスは唇を噛み、ぎろりと防衛陣地を睨みつけたが、歴戦の戦士としての本能が、エウリュメドンの指摘する絶望的な差異を理解していた。
「……ならば、どうするのだ」
「私が使者として赴きます」
エウリュメドンは静かに息を吐いた。
「代表を出せと言っている以上、まずは話し合いの席に着かねばなりません。私が向こうの腹を探ってきます」




