100 両軍対峙②
エウリュメドンが数名の護衛を伴い、ペトラオンの防衛陣地へと赴く。
出迎えたのは、領主の長男リュコメデス、そして弟のフィクスであった。フィクスの背後には、青銅の全身鎧をまとった巨躯の戦士が控えている。
「……無事だったか、エウリュメドン兄上」
フィクスが静かに口を開いた。その瞳には、かつて王宮の片隅から見上げていた兄に対する、偽りのない安堵の色が浮かんでいた。
「王宮が焼け落ちたとナバルノ港で聞いたときは、肝を冷やしました。ヘラクレイオス兄上も、あなたも、こうして息災であられたことを、まずは心から嬉しく思います」
「……フィクスか」
エウリュメドンは苦笑を漏らし、わずかに肩の力を抜いた。
「お前がこの地に送られてから、もう長い歳月が経ったな。変わりないようで何よりだ。リュコメデス殿も、息災で重畳」
「エウリュメドン殿の御無事を寿ぎます」
リュコメデスが短く礼を返したが、その顔には武将としての冷徹な厳しさが張り付いていた。
旧交を温める言葉は、そこまでだった。案内された陣中の粗末な天幕に入るや、交渉は緊張感の中で始まった。
エウリュメドンは背筋を伸ばし、国王の使者としての威厳を持って切り出した。
「単刀直入に本題に入ろう。我らはヘラクレイオス王を擁する、正当なるアカイア王国軍である。王宮が変乱によって灰燼に帰した今、王国を支える有力諸侯として、エリミオンはヘラクレイオス王を正当に遇し、迎える義務があるはずだ。我らは長期の滞在を望んでいるわけではない。王家所由の公有地であるコトナへの軍の駐留を認め、王国軍の立て直しのための補給を供出していただきたい」
王権と、コトナが元より王室の所有であるという理屈を前面に押し出した要求であった。
だが、リュコメデスは眉一つ動かさず、冷ややかな声でそれを切り捨てた。
「お断り申し上げる」
「……何だと?」
「理由はお分かりのはずだ、エウリュメドン殿」
リュコメデスは天幕の机に両手を置いた。
「いかに王家の軍勢であろうと、エリミオンの指揮権が一切及ばぬ武装集団を領内に引き入れることはできん。そんなものを一度抱え込めば、領内の秩序は崩壊し、いずれ破滅を招く。我が父アルケシラオス、そしてエリミオン領の総意として、貴軍の領内進入は認められぬ」
エウリュメドンの眉間に深い皺が刻まれた。
「領主家は、王に対する反逆を企てるというのか?」
「反逆ではない。他の道を提示したい」
今度はフィクスが静かに言葉を継いだ。
「エウリュメドン兄上。エリミオンが提示できる条件は、すでに決まっています。――ヘラクレイオス王がこの地にとどまることを諦め、直ちに兵を引いてアカイア本国へ戻られるのであれば、エリミオン軍は一切の追撃を行いません。そして、本国までの帰路を支えるに足る食糧と物資を、エリミオン領と私から援助いたします」
フィクスはエウリュメドンの目を真っ直ぐに見据えた。
「そして、本国に戻り、アカイアの地で再び再起を図られるというのであれば――エリミオンも私も今まで通り、ヘラクレイオス様を正統なる王として遇し、その復興のための援助を惜しむことはありません」
「……本国へ戻れと?」
エウリュメドンは苦いものを噛み潰したような顔をした。
「焼けた王宮へ戻れというのか。兵を養う術もないあの廃墟へ帰れと? それを受け入れろと兄上に言えば、どうなるか……」
「これ以上の譲歩はあり得ません」
リュコメデスの声は岩のように硬かった。
「領内への駐留は認められません。戻るなら食糧を援助し見送るが、エリミオン領に入ろうとするのであれば、エリミオン全軍をもって、これを防がなくてはなりません」
両者の主張は真っ向から衝突し、天幕の空気は張り詰めたまま凍りついた。
自軍の兵力と飢えの限界を知るエウリュメドンには、それ以上強硬に押し通す手札は残されていなかった。
「……分かった。エリミオンの意向は確かに聞き届けた。この条件を自陣へ持ち帰り、兄上と諮ることにする」
エウリュメドンは重い足取りで天幕を出た。
防衛陣地の木戸へ向けて歩き出し、去ろうとするそのエウリュメドンの背中に向けて、フィクスの声が投げかけられた。
「王宮は焼け落ちました。ですが、アカイア王国そのものが滅びたわけではありません」
エウリュメドンの足が止まった。
フィクスは一歩歩み寄り、静かに、しかし切実な響きを込めて語りかけた。
「王国を立て直すには、兄上のような方が必要になるはずです」
振り返らないエウリュメドンの背中を見つめながら、フィクスは言葉を重ねる。
「兄上には、生きていていただきたいのです。王国のためにも、兵たちのためにも」
「もし戦いになったとしても、私たちが望むのは、王国軍を滅ぼすことではありません」
フィクスの声が、静かに谷間に染み渡っていった。
「どうか、それを覚えておいてください」
エウリュメドンは振り返ることなく、ただ一度だけ、微かに肩を揺らして深く息を吐き出すと、重い足取りで自軍へと歩み去っていった。




