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101/102

101 両軍対峙③

 ペトラオンの狭隘な隘路から自軍の陣営へと戻ったエウリュメドンは、埃と汗にまみれた革の胸当てを外すこともせず、真っ直ぐに兄の天幕へと足を踏み入れた。


 中央に置かれた低い木机の奥には、二メートルに及ぶ巨躯を屈めるようにしてヘラクレイオスが座していた。その傍らには、削られた丸太のように無骨な青銅の長槍が無造作に立てかけられている。


 ヘラクレイオスは弟の足音を聞きつけるや、顔を跳ね上げるように向けた。


「戻ったか、エウリュメドン。首尾はどうだ。エリミオンの者どもは、この余を受け入れる支度を始めたか」


 野太く地を這うような声には、苛立ちが張り付いていた。エウリュメドンは深く息を吐き出し、重い兜を卓の上に置いた。


「……話し合いの結果をお伝えします、兄上。こちらの要求――ヘラクレイオス王の受け入れと、王家公有地であるコトナへの軍の駐留は、拒絶されました」


 ヘラクレイオスの眉が跳ね上がり、太い首筋に青筋が浮いた。


「何だと……!? 王軍の駐留を拒むだと? 辺境の領主風情が、この余に刃向かう気か!」


「相手の言い分は極めて簡潔です」


 エウリュメドンは兄の激昂に引きずられぬよう、努めて平坦な声で続けた。


「自領の指揮権が及ばぬ武装集団を領内に入れることは認めぬ、と。ただし――兄上がこの地への立ち入りを断念し、軍を引き連れて本国アカイアへ戻り、王都の再建を図るというのであれば、一切の追撃は行わない。それどころか、本国までの帰路を支えるに足る食糧と物資を、エリミオン領およびフィクス個人から支援すると申し出ています」


 天幕の中が、沈黙に包まれた。


 エウリュメドンは身を乗り出し、切迫した眼差しで兄を見据えた。


「兄上。この条件を呑むべきです。ペトラオンの地形を見ましたか。左右は切り立った崖、中央の隘路は防衛陣地で完全に塞がれています。そこへ十分な数の兵たちがつめています。恐らく、補給も、交代の兵員も用意されているでしょう。方や我らは、道中での補給もままならず、脱走者すら出ている。ここで戦を仕掛ければ、陣地を抜く前にこちらの兵が擦り潰されます。相手の提案を受け入れ、食糧を得て一度アカイアへ引き返す――それこそが、いまの我らにとって合理的な選択です」


 弟の説得を、ヘラクレイオスは腕を組んだまま、じっと聞いていた。その双眸の奥で、黒々とした炎のような光が渦を巻いている。


 やがて、ヘラクレイオスは低く、喉を鳴らすように笑った。


「……本国へ引き返せ、だと?」


 それは侮蔑と怒りの混ざり合った、嘲るような笑いだった。


「エウリュメドン。お前は物事の表づらしか見えておらんのだな。奴らは『王として遇するが、領内へ入ることは拒む』と言ったのだぞ。それがどういう意味か、本当に分かっているのか?」


 ヘラクレイオスは机に分厚い拳を叩きつけた。木板が軋む。


「王としての名は認めるが、王としての命令は聞かぬと言っているのだ! アカイアの王が、己の国土を通るのに地方領主の顔色を窺い、頭を下げて施しを乞わねばならんというのか? ここで余が引き下がってみろ。エリミオンが王命を公然と跳ね除けたという前例を許せば、他の諸領もみな右に倣って門を閉ざすぞ。王宮を失い、財を失い、その上で家臣に指図すらできなくなった男を、誰が王と呼ぶのだ!」


 ヘラクレイオスにとって、それは自尊心の問題であると同時に、王権の本質に関わる絶対の危機であった。


 王権とは、強大な武威と、それに対する服従によってのみ成り立つ。王宮が焼け落ち、配給システムが消滅した今、彼の手元に残された「王権の実体」は、自分に従うこの数百の戦士たちだけなのだ。その軍を率いながら地方の拒絶に屈して尻尾を巻くなど、王としての存在そのものを自ら否定することに等しかった。


「それにだ、エウリュメドン」


 ヘラクレイオスは立ち上がり、天幕の裂け目から遠く西の空を睨みつけた。


「裏切ったのはエリミオンの方だ。かの地の繁栄は、アカイア王国の庇護のもとで築かれたものではないか。本国が連年の不作に喘ぎ、王宮が灰燼に帰したという危機の最中にあって、奴らは門を閉ざし、王の前に槍衾を並べて立ち塞がったのだぞ。国の危機に富を独り占めし、正統な王を追い返そうとするなど、明らかな反逆ではないか。余は略奪をしに来たのではない。正統な王として、王国の資源を掌握し、秩序を取り戻すために徴収を命じているのだ!」


 エウリュメドンは苦い唾を呑み込んだ。兄にとって、エリミオンの拒絶は合理的な自衛などではなく、許しがたい背信と映っているのだ。


「ですが兄上、戻らねば兵が飢え死にします! 相手の食糧を受け取らなければ――」


「引き返したところで何がある!」


 ヘラクレイオスの怒声が天幕を揺るがした。


「施されたわずかな麦を食いつなぎ、焼け跡のアカイアへ戻ったとして、その先はどうするのだ。宮殿の蔵は空だ。冬を越す麦もなければ、兵に配る油もない。いずれ兵は散り散りになり、余の周りには誰も残らん。座して餓死を待つか、野垂れ死ぬかだ。……だが、エリミオンを手に入れればどうだ」


 ヘラクレイオスの瞳に、野心と執着が宿る。


「広大な畑、麦の詰まった倉庫、ナバルノの良港、そしてフィクスの経済力……。この豊かな土地さえ手中に収めれば、軍を養い、新たな王宮を築き、アカイア王国をここから再興することができるのだ。危険を冒してでも、この地を奪い取る以外に余が生きて王でいられる道はないのだぞ」


「しかし、あのペトラオンの陣地をどうやって抜くというのです!」


 エウリュメドンが声を荒らげた。


「正面からぶつかれば、突破など不可能です!」


「案ずるな」


 ヘラクレイオスは獰猛な笑みを浮かべ、無造作に青銅の長槍を引き寄せた。


「向こうに並んでいるのは何だ? その大半は、畑を耕していただけの農民や、金で雇われた雑多な傭兵どもだ。いくら柵を器用に建てようと、戦場で命を削り合ってきた経験などありはせん。……方や我らはどうだ。王宮の親衛として幾多の修羅場をくぐり抜けてきた、アカイア随一の精鋭だぞ」


 ヘラクレイオスの言葉には、自らが培ってきた武勇への絶対的な矜恃が満ちていた。彼にとって戦争とは、帳簿の数字や物流で決まるものではなく、個の武勇と戦士の気迫、そして指揮官の威光によって敵を圧砕するものなのだ。


「フィクスの奴は昔からそうだ。小賢しく泥板の数字ばかり弄び、武芸の稽古からは死んだような目で逃げ回っていた腰抜けだ。あのような男に、本物の戦ができるはずがない。余自らが先頭に立ち、王旗を掲げて突撃すれば、農民兵など恐怖で腰を抜かして四散するわ。あの程度の柵など、余の腕力で引き倒して見せてくれる」


 弟への侮蔑と、王権への執着。弟の怜悧と、兄の膂力。


 二人の見ている現実は、あまりにも懸絶していた。エウリュメドンは、兄の瞳の奥にあるものが単なる狂気ではなく、失われゆく王権にしがみつく男の、彼なりの必死な政治的合理性であることを悟った。


 退けば王権は死に、進めば軍が砕けるかもしれない。その二者択一において、ヘラクレイオスは「戦わずに死ぬこと」よりも「戦って奪い取る賭け」を選んだのだ。


 エウリュメドンは深く息を吸い、唇を噛み締めながら、重い口を開いた。


「……兄上。ならば、いきなりの総攻撃はお控えください」


「何だと?」


「どうしても退かぬと仰るなら、まずは我が軍の精鋭を整然と進軍させ、王旗を高く掲げて陣前へ押し出しましょう。王たる兄上御自らが前に立ち、エリミオン軍へ最後の服従を要求するのです。兄上の仰る通り、敵が王威に怯える寄せ集めであるならば、正統なる王の姿を見るだけで陣形を崩し、門を開くはずです」


 エウリュメドンは静かに兄を見据えた。


「ですが――もし、それでも敵が微動だにせず、王旗に対して弓を引き絞るようであれば……そのときこそ、本当に血を流す覚悟をお決めください」


 ヘラクレイオスは荒々しく顎を撫で、獰猛に口端を歪めた。


「よいだろう。辺境の者どもに、アカイア正統の王の姿をその目に焼き付けさせてやる。……全軍へ触れを出せ。出陣の支度だ!」


 天幕の外へ飛び出していく伝令の足音を聞きながら、エウリュメドンは一人、暗澹たる思いで拳を握りしめていた。


 遠目にそびえる、あの整然と設えられた防壁が、王権の威光などという幻影に揺らぐはずがないことを、彼の理知は予感していた。

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