102 両軍対峙④
ペトラオンの狭隘な隘路に、重々しい足音が響き始めた。
山陰から姿を現したのは、ヘラクレイオス軍の中でも選りすぐられた王宮親衛の精鋭たちであった。長旅の労苦で革鎧の縁こそ擦り切れていたが、掲げられた青銅の長槍は陽光を鈍く跳ね返し、その隊列は整然と歩調を保っている。中央には、巨大な布に金泥で描かれたアカイア王家の紋章旗が、高く掲げられていた。
そして、その先頭に立つのは、二メートルに達する筋骨逞しい巨躯を甲冑に包んだ男、ヘラクレイオスであった。
馬を歩ませ、防衛陣地の外堀の手前、弓矢の届くぎりぎりの距離まで進み出たその姿は、荒廃した山野にあってなお、圧倒的な戦士としての威容を放っている。彼は手綱を引き、立ちはだかる石壁と木柵を、まるで踏み潰すべき土くれでも見るかのように冷然と見下ろすと、胸板を大きく膨らませた。
空気を裂くような、轟く大音声が谷間に木霊した。
「エリミオンの兵たちよ! 聞け!」
「我こそはアカイアの正統なる王、アガメムノンの子、ヘラクレイオスである!」
自らの血統を誇示する名乗りが、切り立った岩壁に反響し、幾重にも重なって降り注ぐ。
「王宮は焼け落ちた! だが、アカイア王国は滅びておらぬ! 王はここにいる!」
「我は王国を立て直すため、忠勇なる兵たちを率いてここまで来た!」
「エリミオンはアカイア王国の地であり、そなたらもまた、アカイアの民であろう!」
「ならば、なぜ王の行く手を遮る! 誰の命によって、その槍を王に向けるのだ!」
ヘラクレイオスは長槍の穂先を掲げ、防壁の上に並ぶ兵たちを力強く指し示した。その双眸には、正統なる王の威光を前にして平民どもが平伏するのは当然であるという、揺るぎない絶対の確信が満ちている。
「我は、そなたらと戦うために来たのではない! 王国を再び一つにするために来たのだ!」
「今、柵を開き、王国軍を迎え入れよ! 我がもとに帰る者を咎めはせぬ!」
「アカイアの兵たちよ! 王はここにいる! その忠義を示せ!」
谷を揺るがす怒号が止み、張り詰めた沈黙が落ちた。
だが、ヘラクレイオスが期待したような、恐れおののいた兵たちが我先にと武器を投げ捨て、門扉の閂を外すような光景は現れなかった。
防壁の上に居並ぶエリミオン軍の主力は、微動だにしなかった。
彼らが握りしめる槍の柄はブレず、その視線は冷徹に前方を見据えている。彼らにとって、エリミオンを守るということは、単に領主への義理立てを果たすことではなかった。かつて告知板に連載された物語を読み聞かせられ、その物語を元に演じられた劇に涙し、日々の生活の中で幾度となく刷り込まれてきたこと――「家族を、畑を守ること」「理不尽な略奪を跳ね除けること」「領軍と徴集兵が互いの背中を預け合うこと」「秩序を維持すること」こそが、己たちの生をつなぐ唯一の道であると、理解していたからである。神聖なる王権の威光といえども、自らの暮らしを根底から踏み躙りに来た飢えた軍勢の言葉として、彼らの耳には届いていた。
しかし――完璧に見えた防衛線の中で、中央からやや西寄りの、木柵の一角だけが微かに揺らいだ。数本の槍先がおずおずと下がった。兵士たちが顔を見合わせ、隊列にわずかな乱れが生じる。
その微細な動揺を見逃さなかったリュコメデスが、即座に前に進み出た。
四十代半ばの風格を備えた躯から、練達の武将ならではの低く力強い声を張り上げ、山あいの空気を制するように直答する。
「ヘラクレイオス陛下! 我らは陛下に弓を引くことを望みませぬ!」
リュコメデスの声が響き渡ると、動揺しかけていた兵たちがハッと我に返り、背筋を伸ばした。
「しかし、エリミオンの民と暮らしを守ることも、我らに課せられた務めであります!」
リュコメデスは防壁の縁に立ち、迷いのない眼差しで正面の王を見据えた。
「軍をお退きください! そうすれば、我らも戦うことはありませぬ!」
その堂々たる拒絶に、防壁の兵たちの間に再び鉄のような結束が戻った。
陣前で手綱を握るヘラクレイオスは、面目を潰された怒りに頬の肉を震わせたが、その視線は冷酷に防衛線の一点を捉えていた。
「……見よ、アンドロメネス。あの一角の兵どもは、王に槍を向けることをためらっておる」
ヘラクレイオスが馬上から顎をしゃくった。その視線の先には、先ほど槍先を下げ、互いに顔を見合わせていた兵たちの持ち場があった。
「あそこを突けば、奴らは崩れるのではないか」
歴戦の戦士としての嗅覚が、脆い継ぎ目を見出したかのように瞳を輝かせる。
だが、その斜め後ろに馬を寄せていた将軍アンドロメネスは、兜の庇の下から鋭利な視線を防壁へ走らせ、重々しく首を横に振った。
「陛下、確かにあの一角は乱れております」
アンドロメネスの声は低く、慎重だった。
「ですが、妙でございます。隣の兵たちは動じておりませぬ。後方の兵も、助けに動く様子がありません」
老将は目を細め、防壁の構造と兵の配置を観察し続ける。
「真に陣が崩れかけているのであれば、周囲にも動揺が広がるはず。……あれは兵の質の差か、あるいは別の意図か。いずれにせよ、左右の部隊は整然と持ち場を守り、備えを崩しておりませぬ。まずは兵を退き、様子を探らせるべきかと存じます」
そこへ、後方から馬を進めてきたエウリュメドンが並んだ。その表情には、疲労と焦燥が色濃くにじんでいる。
「兄上、我らが率いてきたのは、陣地を攻める支度を整えた軍ではありません」
エウリュメドンは声を抑えながら、切迫した調子で兄を諫めた。
「兵は疲れ、食糧も乏しい。敵の一角が乱れたからといって、今すぐ攻め込めるものではありません。……まずは兵を休ませるべきです」
ヘラクレイオスは不快そうに鼻を鳴らし、防壁の上に翻るエリミオンの旗を睨みつけた。これ以上の押し問答は、かえって自軍の疲弊と統制の乱れを敵に晒すことになりかねない。
「……よかろう。いったん兵を退く」
背を向けて自陣へと引き返していくヘラクレイオス軍の精鋭たちを見送りながら、フィクスは、静かに息を吐き出した。




