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097 流浪の王

 最高財務官をつとめていた老書記官プロテウスが身罷ったころから、アカイア王宮を中心とした巨大な宮殿経済の歯車は、鈍い軋み音を立て始めていた。


 各地の役人が刻む粘土板の帳簿と、実際に王宮の大倉庫に運び込まれる穀物や油の量との間に、無視できない開きが生じ始めたのだ。各領、各街、そして山あいの村々に至るまで、各地からの貢納品が王宮の門をくぐるまでのあらゆる段階で、まるで水が漏れ出すかのように、有力者や役人の手によって物資が掠め取られていた。


 そこへ追い打ちをかけたのが、東地中海全域を苛む数年にわたる異常気象であった。連年の凶作は、配給を滞らせ、人々の心に不信を植え付けた。


 それでも、猛禽の如き眼光で諸侯を威圧し、長きに渡り君臨し続けてきた前王アガメムノン三世が健在であれば、破局の引き金は引かれずにいたのかもしれない。


 しかし、この抜き差しならぬ時局において、アガメムノン三世の逝去により、ヘラクレイオスが新たな王として即位した。しかし、事態を好転させることは出来なかった。不満と絶望が沸点を超えたとき、大規模な反乱が勃発した。何世代にもわたって威容を誇った巨石の王宮は、あっけなく、焼け落ちたのである。


 ---


 野の天幕において、二人の王族が向き合っていた。


「兵たちをこれ以上、食わせることはできませんよ、兄上」


 前王の第二王子エウリュメドンが、ため息交じりに切り出した。


 王宮周辺の集落からは、すでに「徴収」という名目のもと、種籾に至るまで略奪を終えた後だった。焼け落ちた王宮から逃げ延びたのち、ヘラクレイオスの周囲には、王家の血統と武勇にすがる数百の将兵が集まっていた。しかし、その忠義の裏側には、それぞれが己の命と腹を満たすための打算を抱えている。飯が食えなくなれば、この武装集団が王に刃を向けぬという保証はどこにもなかった。


 ヘラクレイオスは身の丈二メートルに及ぶ巨躯から野太い声を発する。


「また、移動するしかないな」


 その場当たりな言葉に、エウリュメドンは即座に否定の色を浮かべた。


「兵の数を減らしましょう。余計な兵を捨てて身軽になってから、王宮へ戻って体制を立て直すべきです。王宮は強固な石組みで築かれている。焼け落ちたとはいえ、残った壁を利用すれば修復は十分に可能です。王国諸領に使いを送り、援助を乞うのです」


 ヘラクレイオスはあからさまに嫌悪の表情を浮かべた。鼻腔を膨らませ、太い腕を組む。


 兵を減らし、焼け跡の瓦礫にしがみついて地方領主に頭を下げるなど、アカイア王国の正当なる王である彼にとって、肥大した自我を傷つけられる屈辱でしかなかった。


「ならん。王宮を失い、兵まで失えば、何をもって余を王と呼ばせるのだ。兵を手放した王の命令など、誰が聞くものか、今の兵力を維持したまま、次へ移動する」


 エウリュメドンは根気よく説得を続けた。


「どこかで軍を再建することを考えねばなりません。行く先々で村をイナゴのように食いつぶしていくだけでは、ジリ貧です」


「エリミオンだ」


 低く、有無を言わせぬ響きを帯びて、ヘラクレイオスが言った。


「アカイア王国の諸領の中で、この不作でも上手くやっていると聞くのは、あの地だけだ。……王自らへ出向くのは業腹だが、かの地の領主に、余に対して臣下としての礼をとらせる」


 エウリュメドンは喉元まで出かかった反論を呑み込み、内心で反論する。


(平時であれば、臣下の礼をとらせることもできよう。だが今の兄上は、焼け落ちた王宮から逃げ出してきた流浪の王に過ぎないのだ。エリミオンの領主が、喜んでヘラクレイオスを受け入れるはずがないではないか……)


 アガメムノン三世の第一王子として生まれ落ちて以来、周囲の人間は自分に傅き、自らの意に従うのが当然の世界で生きてきた男である。そして、人を威圧する巨躯もまた、彼の自我を肥大化させる一因となった。


(兄上は、相手にも自身の損得勘定があり、拒む理由があるということを、考えられぬのだ)


 かつて王宮で「穀潰し」と見下していた弟フィクスへの侮りと、彼の地で豊かに暮らしていることに対するやっかみも背中を押しているに違いなかった。


 ヘラクレイオスの見通しの甘さに呆れ果てながらも、エウリュメドンの脳裏に、もう一つの現実的な計算が形を結び始めた。


(……だが、道中の村々からを徴収しながら進むのであれば、エルド山地を越えてエリミオンへ進軍すること自体は不可能ではない。アカイア王宮が焼け落ちたという報せは届いていようが、兄上が手勢を束ねて、エリミオンへ進軍してくるとは思っていまい)


 エルド山地を抜ければ、活路はある。


(エリミオン領内に足を踏み入れ、王家の公有地であるコトナに軍勢を入れてしまうのだ。理屈の上では、領主家であっても王家直轄の土地から王軍を追い出すための名分は無い。コトナを拠点とし、王弟であるフィクスの経済力を利用して、領内の一大勢力として居座ってしまえば、エリミオン領主もヘラクレイオスを少なくとも表面上は、アカイア王国の正統な王として立てざるを得なくなるはずだ)


 王家の土地と王弟の財を利用して、王の軍勢を維持する――。


 兄の傲慢な思いつきの中に、生存への活路を見出してしまったエウリュメドンは、もはやそれ以上反対の声を上げることはしなかった。


「……承知いたしました、兄上」


 こうして、飢えた数百の戦士たちを従えた流浪の王は、エリミオンを目指して進軍することになった。

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