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096 全体会議

 領主館の大広間に急遽しつらえられた席列には、重々しい沈黙と、何かが弾けそうな極度の緊張感が張り詰めていた。


 上座には領主アルケシラオス、その隣に防衛の責を担う長男リュコメデス。卓を挟んで領軍の重臣や将官、書記官たちが居並び、その後方や下座側には、傭兵の頭、輸送業者の総代、節くれだった骨太の手を持つ土木工事の差配役、そして林業の親方たちが、硬い表情で身を縮めつつも鋭い視線を正面に向けていた。


 フィクスは上座のアルケシラオスに短く目礼を交わすと、全員が見渡せる卓の端に立った。


「急ぎ集まっていただいた皆に、まず状況を共有したい」


 静まり返った広間に、フィクスの落ち着いた、しかし芯の通った声が響いた。


「アカイア王宮が焼け落ちたという凶報は、すでにナバルノ港を通じて届いている。我々が直面しているのは、単なる王都の変乱ではない。王宮が崩壊し、穀物庫が灰燼に帰したことで、軍を養う仕組みそのものが消滅した。そして――兄であるヘラクレイオス王が生き延び、行き場を失った戦士たちを束ねて軍を形成していた場合、彼らは飢えをしのぎ、新たな拠点を求めて、この豊かなエリミオンを目指して進軍してくる。これが、我々が想定すべき最悪の事態だ」


 広間の下座側に座る民間や傭兵の長たちから、低く息を呑む気配が漏れた。


「アカイア本国からエルド山地を越えてこの平野へ至る行軍速度と、情報の遅れを鑑みれば、猶予はわずか三日分しかない。今この瞬間にも、飢えた大軍が進軍している可能性がある。したがって――領主アルケシラオス殿の御決断のもと、エリミオンは直ちにこの最悪の想定に沿って全勢力を動員する。形式的な通達を行っている時間はない。この会議で、大方針を固め、それぞれの役割をこの場で決定する」


 言い切ったフィクスが息を整えかけたとき、上座のリュコメデスが静かに右手を挙げた。


「フィクス殿。発言を許されたい」


「どうぞ、リュコメデス殿」


 フィクスが静かに一歩引く。左手首の青銅のバングルが、肌に微かな熱を伝えていた。


『事前の打ち合わせ通りね、フィクス。あなたが口にすれば、ただの保身や私財惜しさと受け取られかねない。領主家から口火を切らせるのが一番よ』


(財産を惜しんでいるとか、実はヘラクレイオス王の進軍を喜んでいるとか、痛くもない腹を探られたくはないからね。家族も生活もここにある。僕はエリミオンの人間だよ)


 リュコメデスは立ち上がり、並み居る将官たちを重厚な眼差しで見据えた。


「最悪の想定を立てるにあたり、もう一つ、極めて現実味のある事態を考慮せねばならん。――もしヘラクレイオス王が軍勢を率いて現れ、彼らの要求が『軍のコトナへの駐留』と『王弟フィクス殿の財産の接収』であった場合だ」


 その言葉が落ちた瞬間、重臣、将官、書記官たちの間で一斉にざわめきが波紋のように広がった。


「……コトナへの駐留と、フィクス様の財産だと?」

「元々、コトナはアカイア王家の公有地だ。現王であるヘラクレイオス様が自らの土地に駐留されると仰るなら、道理が通ってしまうではないか」

「それに、フィクス様も王族の身。王家の資財を王軍が接収するのに、何の不思議がある。それを受け入れさえすれば……我がエリミオン領軍は血を流さずに済むのではないか」


 囁き合う者たちの顔には、突然の軍事衝突を回避できるかもしれないという安堵と、領主家ではない「外来の王族」の財産を差し出すことで破局を免れようとする計算が、浮かんでいた。


 その打算を見透かしたように、上座のアルケシラオスがゆっくりと立ち上がった。


 椅子が石床を擦る重い音一つで、騒然としていた広間は瞬時に静まり返った。エリミオンを長年統べ治めてきた老領主の双眸が、鋭く広間の隅々を射抜く。


「短慮にすぎるぞ」


 低く、地鳴りのような声だった。


「その要求に従えば、目先の一戦は避けられ、短期的にはすべてが丸く収まったように見えるだろう。だが、物事の筋道をよく考えよ。我が領内に、エリミオンの指揮権が一切及ばぬ武装集団を抱え込むことになるのだぞ」


 アルケシラオスは卓板に拳を置いた。


「王の威光を傘に着た軍勢が居座ればどうなる。やがて領内の者の中からも、領主家を差し置いて王権に媚びを売り、すり寄る者が出始める。秩序は内側から腐り、分裂するだろう。それだけではない。『海の民』などの外来の敵がエリミオン襲った際も、我らはヘラクレイオス軍に背中を刺されぬ用心のために貴重な兵を割かねばならなくなるのだぞ」


 冷徹な現実を突きつけられ、先ほどまで「血を流さずに済む」と安堵の息を漏らしていた将官たちが、居心地悪そうに首を縮めた。


「招かれざる武装集団を領内に一歩でも引き入れれば、待っているのは緩慢な破滅だ」


 アルケシラオスの断固たる声が、広間の石壁に反響した。


「方針は一つ。ヘラクレイオス軍は領内に一歩も入れぬ。エルド山地の出口、ペトラオンにて押し止める」


 広間の中の空気が一変した。迷いは消え去り、大方針が定まった。


 フィクスが再び前に進み出た。


「方針が決まった以上、次に定めるべきは、ヘラクレイオス王との交渉の限界線です。戦わずして退いてくれるならば、それに越したことはない」


 フィクスはアルケシラオスと目を合わせ、頷き合った。


「ヘラクレイオス王がこの地にとどまらず、本国アカイアへ戻り、王都の再建を図るというのであれば――エリミオン領、そして私個人としても、持てる限りの食糧と物資を援助する。これを交渉の条件とします」


「うむ」


 アルケシラオスが頷くと同時に、リュコメデスが控えていた書記官たちへ鋭い視線を投げた。


「聞いたな。我がエリミオンの生産力と備蓄から、領民の生活を脅かさぬ範囲でどれほどの物資を捻出できるか、直ちに算定に入れ」


 書記官たちが、ある者は資料を求めて広間を退出し、ある者は計算の準備に入った。


「そして――」


 フィクスの声が、一段と引き締まった。


「交渉が決裂し、戦となった場合の行動です。領民の保護、動員可能な兵力とペトラオンで撃退するために必要な兵数、防御陣地の規模、期限、そして軍事上の優先順位。これらをただの机上の空論に終わらせず、今、この場で実行可能な形に落とし込まねばなりません」


 加えてフィクスから提案がなされる。


「そして、ヘラクレイオス軍は、補給を持たない軍勢です。彼らのペトラオンへの行軍路となるエルド山地の村々は、ほぼ確実に通過の際に略奪を受けます」


 山地出身の傭兵たちや林業の親方たちの表情が、さっと強張った。


「敵に食糧を与えれば、勢いが増します。逆に山中で食糧を得られなければ、ペトラオンに辿り着く頃には疲弊しきっているはずです。――そこで、エルド山地の村落に対し、迅速な避難命令を出すと同時に、輸送業者を動員して、村に保管されている食料、家畜の群れを後方へ運び出すのです」


 会議室内の傭兵たち、輸送業者や土木業者、林業の男たちが、目を見張った。彼らの多くは、まさにそのエルド山地の谷間に広がる寒村の出身だったからだ。同胞の命と財産を救い出すための役割。


 そこからの広間は、もはや格式ばった評定の場ではなく、剥き出しの作業場と化した。


 リュコメデスと領軍の将官がペトラオンの地形図を広げ、防衛線の配置と兵の割り振りを検討する。そこへ土木業者の差配役が呼ばれ、空堀と木柵、逆茂木を築くのに必要な人夫の数と所要時間を概算が求められる。林業の親方たちは、木柵に転用できる木材の在庫と切り出し可能量を即座に弾き出し、輸送業者の総代は荷車とロバの稼働可能数を数え。エルド山地出身者達は、村々への警告の手配と輸送の段取りを取り決める。


 身分や立場の垣根は、差し迫った危機の前に消え去っていた。


 ---


「全方針は決定した」


 アルケシラオスが立ち上がり、大広間に集まったすべての者たちを見渡して低く告げた。


「エリミオンの存亡は、これより後の皆の働きにかかっている。各員、直ちに行動せよ!」


「応ッ!」


 地鳴りのような返答が広間を揺るがした。


 会議の解散が宣せられた瞬間、集まった者たちは一斉に踵を返した。中でもエルド山地を故郷に持つ傭兵、輸送業者、土木業者、林業経営者たちは、張り詰めた弦から解き放たれた矢のように、我先にと大広間の扉を蹴破る勢いで駆け出していった。


 静まり返り始めた広間に残り、埃の舞う通路を見送るフィクスの耳元へ、左手首の青銅のバングルから、ジェミニのどこか誇らしげな声が滑り込んできた。


『ふふっ……いい煽り方だったわよ、フィクス。利益の一致と郷土愛を同時に刺激するなんて、なかなかの策士じゃない』


(煽ったつもりはないさ。山でヘラクレイオス軍を飢えさせることが、そのままこの平野を守ることになる。現実的な手を打っただけさ)


 フィクスは内心でそう呟きながら、自らの両手を見つめた。十日と七日、そしてわずか三日の猶予。


 エリミオンの命運を賭けた、時間との壮絶な競争が幕を開けた。

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