095 領主館へ
部屋の隅に控えていたアリタが一歩進み出ると、至極平坦な声で試算の結果を告げた。
「マスター。地形データおよび大集団の移動速度から算出した推計です。アカイア本国からエルド山地を越えてこのエリミオンを目指す場合、行軍に要する日数は最速で十五日となります」
フィクスは腕を組み、顎に手を当てた。
「十五日か……。だが、アカイア王宮が焼け落ちたという情報が海を渡ってナバルノ港に届くまでに、すでに五日を費やしている。王宮崩壊の直後、仮にヘラクレイオス軍が即座に形成されたとして、彼らがどれほどの準備期間を置いて出発したかは掴めない」
左手首の青銅のバングルから、ジェミニの張り詰めた思念が直接、頭の中へ届く。
『最悪のケースの想定ね、フィクス。軍の形成と同時に、略奪しながら進む前提で即日移動を開始していたとしたら――出発してから五日が経過している計算になるわ』
「ああ。そうなると、最速なら今からわずか十日後には、エルド山地の出口――ペトラオン付近にヘラクレイオス軍の先鋒が現れることになる」
フィクスの呟きに、アリタが冷徹な事実を重ねた。
「一方、エリミオン側が領軍を動員し、兵員や物資がペトラオンに到着するには、七日を要します」
「十日と、七日……」
フィクスは奥歯を噛み締めた。猶予はわずか三日分しかない。もし動員や補給の差配に少しでも手間取れば、敵が山から平野部へ雪崩れ込む前に要所を塞ぐことすら不可能になる。ペトラオンを抜かれれば、背後に広がるのは肥沃だが遮るもののないエリミオンの平野だ。そこで略奪者を迎え撃つことになれば、農地も集落も、瞬く間に灰燼に帰してしまう。
「迎撃するなら、ペトラオンしかない。……とにかく時間がない」
フィクスはすぐさま顔を上げ、部屋の外に控えていた従者を呼んだ。
「リュサンドロス、早馬を走らせろ。傭兵の頭、輸送業者の総代、土木建築の差配役、そして山林を預かる林業の親方たちへ伝令を飛ばすんだ。今すぐ、手元の仕事を放り出して領主館へ集まるようにと伝えろ」
「はっ、直ちに!」
従者が小走りに去っていく背中を見送り、フィクスは上着を羽織った。
「私自身も領主館へ向かう」
フィクスは緊迫した空気の漂い始めた居館を後にした。
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領主館の大広間には、フィクスの急な来訪を受けた領主アルケシラオスと、防衛の差配を預かる長男リュコメデス、そして領軍の主だった将官たちが顔を揃えていた。
重々しい石造りの広間に足を踏み入れたフィクスは、四十代半ばを越え、武将としての風格を増したリュコメデスのものを問いたげな視線に迎えられた。
「フィクス殿、血相を変えて呼び出しとは何事だ。アカイア王宮が焼け落ちたという凶報なら、我らの耳にも届いているが……」
「その先の話です、義兄上」
フィクスは最悪の想定を同席者たちに告げた。
アルケシラオスが深く刻まれた眉間の皺を寄せ、低く呟いた。
「飢えた兵……。飯の食えぬ軍勢が、何をするかは明白だな」
武官の一人が耐えかねたように反論の声を上げる。
「お待ちくだされ! いくらなんでも飛躍が過ぎる。ヘラクレイオス王が生き延びられたかどうかも分からぬ上、仮に兵を集め、真っ直ぐこのエリミオンを襲うなど……ご自身が最初に述べられていたように、すべては推測、ただの想定に過ぎぬのではないのですか」
だが、フィクスは一歩も退かなかった。
「ええ、おっしゃる通りです。これは最悪の想定に過ぎません」
フィクスは視線を武官から、上座のアルケシラオスとリュコメデスへと据え直した。
「ですが、もしこの想定が外れ、ヘラクレイオス軍など来なかったとしましょう。そのとき失われるのは、部隊を動かし、陣地を固めるために費やした『物資と手間』だけです。無駄骨を折ったと笑われ、費用の帳尻を合わせれば、それで済みます。そして、そのときに向けられる嘲笑と悪評の全ては、私が引き受けましょう」
声の調子を一段落とし、フィクスは広間の全員を見渡した。
「しかし――もしもこの事態が現実となり、私たちが『起こらないだろう』と高をくくって備えを怠っていたら、どうなりますか? ペトラオンの出口を突破され、飢えた武装集団がこの肥沃な平原へ雪崩れ込めば、畑は焼き払われ、倉庫の穀物は奪われ、民は蹂躙されます」
アルケシラオスの鋭い眼光が、じっとフィクスを射抜く。
「費用の損失と、領の危機。比べるまでもありません。起こるはずがないと目を背けるのではなく、最悪を前提にして今すぐ動くことこそが、民の命を預かる者の務めではありませんか」
静まり返った広間の中で、リュコメデスが低く息を吐いた。
「……父上。フィクス殿の申す通りです。あのヘラクレイオス王なら、焼け跡から兵をかき集め、略奪しながらでもこちらへ向かってくる。そして、エリミオン領に君臨することを要求する。あの御方の性質を考えれば、十分にあり得る話です」
アルケシラオスは重々しく頷いた。
「相分かった。フィクス殿の言に理がある。……リュコメデス、直ちに領軍に出陣の支度を――」
「お待ちください、アルケシラオス殿」
フィクスが遮るように手を挙げた。
「平野部に入られる前に食い止めるなら、猶予は三日……今この瞬間に動かねば間に合いません」
そのあまりに切迫した日時に、リュコメデスすら息を呑んだ。
「火急の時ですので、僭越ながら、手を打ちました」
フィクスは言葉を切り、領主アルケシラオスに向き直った。
「すでに、傭兵、輸送業者、土木業者、そしてエルド山地の林業経営者の主だった者たちへ、領主館へ集まるよう伝令を放ちました。彼らは今、この館へ向かっております」
広間の将官たちの間に、動揺と反発の混ざったざわめきが広がった。
本来、このような想定外の有事が起きた場合、まずは領主家と領軍の首脳部だけで密室の方針決定を行い、それから命令という形で各方面へ下達していくのが、通常の手順である。平民の商人や職人、傭兵などを、軍議の場に直接招き入れるなど前代未聞であった。
将官の一人が眉を吊り上げ、フィクスに詰め寄ろうとする。
「フィクス様! いくら王族のお方とはいえ、我ら領軍の頭越しに民間の荷担ぎや工夫を呼びつけるなど、秩序が乱れますぞ! まずは我らで評定を開き、方針を固めてから命令を下すのが筋というもの――」
「その『筋』を通している間に、ペトラオンの出口を敵に破られます!」
フィクスの放った一喝が、石造りの広間に鋭く木霊した。普段の温和で目立たぬ姿勢を知る者たちは、その気迫に気圧されて言葉を失う。
フィクスはアルケシラオスとリュコメデスの前に進み出た。
「アルケシラオス殿、リュコメデス殿。平時の手順を踏んでいては間に合わないのです。我らが会議を開き、方針を決め、それを伝令で下達し、それから現場が準備を始めていては、それだけで二日、三日が無駄に消えます。その上、伝達の過程で指示が歪み、現場で混乱が起きれば致命傷になりかねない」
左手首のバングルから、ジェミニの冷静な声が背中を押す。
『そうよ、必要なのは情報の共有よ。背景情報と大方針が正確に共有されれば、間違いが起こりづらくなるわ。そして、情報においては、軍と民の境界を取り払うのよ』
フィクスは二人の目を真っ直ぐに見据えて訴えた。
「敵を迎え撃つために必要なのは、兵士の数だけではありません。物資を迅速に送り届ける輸送力、峠に遮断陣地を築く土木、現地で資材を賄う林業従事者、そして即応の傭兵たちです。彼ら現場の長をこの場に集め、危機の内容と切迫性を全員で同時に共有し、その場で領軍と領民が一体となった作戦を決定したいのです」
一呼吸を置き、フィクスは深々と頭を下げた。
「領主家、領軍、書記官、そして傭兵、輸送、土木、林業の主だった者たち全員による、緊急の全体会議の開催をお認めください。エリミオンのすべてを総動員しなければ、この危機は乗り越えられません」
広間を、重苦しい沈黙が支配した。
将官たちが固唾を呑んで見守る中、アルケシラオスは閉じていた目をゆっくりと開いた。その双眸には、迷いはなかった。
「……リュコメデス」
「はっ」
「フィクス殿の申す通りだ。形式にこだわって所領を滅ぼしては、先祖にも民にも顔向けができん。大広間に席を整えよ。館へ到着した者から、身分を問わず直ちに中へ通すのだ」
「父上……! はっ、直ちに手配いたします!」
リュコメデスが踵を返し、将官たちへ鋭い怒号を飛ばし始めた。
張り詰めた空気の中、フィクスは小さく息を吸い、広間の入り口へと視線を向けた。エリミオンという一つの共同体が、その持てるすべての力を結集して巨大な嵐に立ち向かうための、前代未聞の会議が幕を開けようとしていた。




