094 最悪の想定
館にある自室の石の窓枠から吹き込む夕暮れの風は微かに涼しさを帯びていたが、室内の空気は澱んだように重い。
卓を挟んで座るフィロメラは、広げられた報告の粘土板を指先でなぞりながら、痛ましげに眉をひそめている。その向かいでは、淡い燐光をまとった等身大の女性の姿――ジェミニが、肘をついて空中に浮かぶように座り、部屋の隅には侍女のアリタが一切の物音を立てずに控えていた。
フィクスは額に手を当て、深い息を吐き出した。
「……失敗した。海からの略奪者ばかりに気を取られて、本国――アカイア王宮そのものの崩壊については、想定を怠っていた」
自嘲気味に呟いたその言葉に、フィロメラが気遣わしげな視線を向ける。だが、左手首の青銅のバングルが微かに温もりを帯びると、ジェミニの小気味よい声が紡ぎ出された。
『ちょっと、そうやって自分を責めても仕方ないわ。海の民に備えてこれまでやってきたこと――農業の多角化も、内陸倉庫への分散備蓄も、街道と定期便のネットワークも、何一つ無駄になんてなってないわ。本国方面から押し寄せてくるかもしれない危機に対しても、十分に機能するはずよ』
「ありがとう、ジェミニ。だが、想定が甘かったのは紛れもない事実だ。海からの外敵ばかりを警戒して、内側からの危機への対応を後回しにしていた」
フィクスは腕を組み、卓上の粘土板を見つめ直した。
「泥縄で申し訳ないが……ジェミニ、起こりうる最悪の事態を想定してみてくれないか。この先、アカイア王宮方面からどんな脅威がこのエリミオンにどのように影響する可能性があるのかを」
フィクスが頼むと、燐光を散らすジェミニの表情から軽さが消え、超知性としての鋭い光がその瞳に宿った。
『いいわ。ナバルノ港へ逃げてきた避難民たちの証言と、これまでの本国との力関係、現在のヘラクレイオス王の性格から、最悪のシナリオを組み立ててみるわね』
ジェミニは卓の上に立ち上がり、虚空に光の線でペロポネソス半島の略図を描き出した。
『まず、ヘラクレイオス王は生き残ったと仮定するわ。あの巨躯と武勇を誇るヘラクレイオスが容易に死ぬとは思えない。そして王宮が崩壊し、秩序が吹き飛んだ荒野においても、「王権」と「圧倒的な腕力」を持つ存在は、絶望した人々にとって唯一の縋り木になるのよ』
「兄上……いえ、ヘラクレイオス王か」
フィクスが呟くと、ジェミニは冷徹に頷いた。
『ええ。王権という幻影にすがる旧臣や、行き場を失った戦士たちが、生き延びるために彼のもとへと群がり、兵力そのものは自然と集まるはずよ。だけど、そこが最大の破綻点なの。アカイアの宮殿経済は完全に崩壊して、再分配システムは消滅した。王宮は燃え落ち、貢納の麦も底を突いている。つまりヘラクレイオスには、集まってきた兵たちを食わせる手段が一切ないのよ』
「兵を養う麦がなければ……」
フィロメラが青ざめた顔で言葉を漏らした。その先にある光景が、所領経営に明るい彼女には痛いほど見えてしまったのだ。
『そう。武装した大集団が飯を食えなくなったら、やることは一つしかないわ。「徴収」という名の、無制限の略奪よ』
ジェミニの細い指先が、光の地図の上でアカイア王宮を中心とした円を描く。
『近隣の村々から力尽くで食糧を奪い尽くせば、彼らは腹を満たすために、まだ略奪されていない土地へと移動し続けるイナゴの群れになるわ。そして――ヘラクレイオスはよく知っているはずよ。辺境へ追いやった穀潰しの弟、フィクスが居るエリミオンが豊であることをね』
室内に冷たい沈黙が落ちた。
『彼らは途上の村落を略奪し、飢えをしのぎながら、エルド山地を越えの陸路で、あるいは海路でこのエリミオンを目指してくる。その段階におけるヘラクレイオスの目的は、単なる食糧の徴収じゃないわ。王権の威光を振りかざして、エリミオン領そのものを「接収」し、この豊かな土地を自らの新たな王国として支配・統治することよ』
「……接収、ですか」
フィロメラが震える声で呟き、ジェミニの横顔を見つめた。
『最悪の想定だからね。でも、ヘラクレイオスの性格から言って、確度は高いわ。彼は間借りでは我慢できない。家主となることを要求してくるはずよ』
正統な王権を掲げる兄が、腹を空かせた武装集団を引き連れ、「王命」としてエリミオンの上に君臨することを要求してくる。拒絶すれば反逆者として武力で踏み潰し、従えばこれまで築き上げてきたエリミオンの富と秩序は、無軌道な戦士たちによって瞬く間に食い潰され、破壊される。
壁際に立つアリタが、静かに青い光を宿した瞳をフィクスへ向けた。
「マスター。ヘラクレイオス軍の進軍速度、山岳地帯での補給限界、および兵員数の推計シミュレーションを開始可能です。迎撃、あるいは防衛体制の再編について、ご下命を」
フィクスは深く息を吸い、背筋を伸ばした。
「ああ。頼む、アリタ。……最悪の事態が明確になったのなら、やるべきことは決まっている。我が兄上が軍を引き連れてこの地を踏む前に、迎え撃つ準備を整えよう」




