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093 フィロメラのとの結婚から三十年後 フィクス47歳

 十年という歳月が流れた。


 フィロメラを妻に迎えてから数えて三十年、フィクスも、いまや四十七歳となっていた。青年期の面影を残しながらも、その佇まいには確かな年輪と、幾重もの思索を重ねてきた者特有の静かな重みが備わっている。


 だが、この十年の間に彼らが築き上げてきた平穏とは裏腹に、海を隔てた外の世界は、かつてない暗雲に覆われつつあった。


 地中海の沿岸諸国を、数年にわたる天候不順が襲っていた。冬の雨は少なく、夏の照りつけは大地を苛み、豊かな実りをもたらすはずだった農地は干上がり、各地で深刻な飢饉が常態化していった。食糧の枯渇は人々の理性を削り取り、領主や王権に対する暴動を引き起こし、住む場所を失った無数の人々が難民となって荒野や海へと溢れ出していった。そして、生き延びるために武器を手にした難民たちはやがて略奪集団へと姿を変え、地中海全域は、かつてないほどに騒然とした危険な領域へと変貌を遂げていたのである。


 沿岸の航路には海賊が跋扈し、武装した護衛船を伴わなければ、いかなる交易船も海へ出ることすら叶わない。東地中海を網の目のように結んでいた古き交易網は、いまやその結び目を音を立てて断ち切られつつあった。


 そうした外海の嵐の中にあって、エリミオンだけは奇跡のような静けさを保っていた。


 かつてフィクスが打ち出した農業改革――単一の作物に頼らず、水利と土壌を見極めて多様な作物を育てる試みは、連年の天候不順にあっても致命的な飢えを防いでいた。内陸の要所に築かれた頑丈な倉庫には、平時に蓄えられた穀物や油、干し肉が整然と積まれており、不作の年であっても民を飢えさせることはなかった。さらに、海外の支店網を通じたオル建て為替によって、日頃から集積され続けてきた銅と錫は、武器工房や鍛冶場の活動を止めなかった。


 だが、外からの脅威が完全にエリミオンを避けて通ったわけではない。


 国家権力が崩壊し、防壁の守り手を失った都市や村落が「海の民」と呼ばれる略奪船団によって次々と略奪に会う中、エリミオンの沿岸にも、その凶刃は幾度か伸びていた。おそらくは防備の隙を窺うための、小規模な偵察を兼ねた襲撃が散発的に繰り返されたのだ。


 しかし、エリミオンは無防備ではなかった。沖合で不穏な船影が確認されるやいなや、狼煙と街道の早馬によって情報は瞬く間に内陸へ伝わり、民衆は迅速に、家財に拘ることなく、決められた拠点へと退避した。そして、領軍、徴集兵、傭兵の連携により、波打ち際で略奪者たちを撃退していったのである。


 その堅牢な防衛体制は、侵略者たちにも強く刻み込まれたに違いなかった。エリミオンの守りは堅いという認識が広まったためか、この地に略奪者が本格的に押し寄せる事態は、今日に至るまで防がれていた。


 それでも、村々の辻に立つ告知板に、海外の都市の悲報が掲示されるたび、領内には重苦しい空気が漂った。平穏な暮らしを営みながらも、いつ対岸の火事がこの地へ燃え移るのではないかという不安の影が領民の心に落ちていたのである。


 そして、その決定的な亀裂を告げる不穏な知らせは、海を越えた異国からではなく、背後の本国――アカイア王宮の方面からもたらされた。


「アカイア王宮が、焼け落ちた」


 ナバルノ港にもたらされたその一報がフィクスの下に届いた。


 一報を受けたフィクスは、港での調査を開始した。東の海からきた船乗りたちから、集められる限りの証言を丹念に拾い上げていく。


 彼らの断片的な証言と、これまでに蓄積してきた各地の情報を照らし合わせるうちに、フィクスの脳裏には、本国で起きたであろう崩壊の道筋が冷徹な線となって浮かび上がってきた。


 数年にわたる天候不順による不作。それはアカイアの豊かな穀倉地帯をも容赦なく干上がらせたに違いない。

 各地からの貢納は激減し、王宮の巨大な倉庫を埋めていたはずの富は底を突いた。王宮経済の根幹である「中央への集積と、粘土板による再分配」という循環は、配給すべき物資そのものを失ったことで致命的な機能不全に陥ったはずだ。


 武勇を謳われたかつての第一王子、アガメムノン三世の後を継いだ現在の王ヘラクレイオスであっても、空の壺から食料を湧き出させることはできない。配給の縮小は民や兵の不満を爆発させ、軍を養う手立てを失った王権は急速にその求心力を失墜させた。そして――飢えと不信が臨界点に達したとき、かつて王宮に傅いていた有力者や戦士たちが反旗を翻し、内乱へと突き進んだのではないか。外敵の襲来を待つ必要も無かった。過度に中央へ集中した経済、王宮経済の破綻と同時に、巨大な城塞も崩壊したのだ。


 その推論の正しさは、内乱から逃れた人々がナバルノ港に着き始め、新しい情報が齎されることで裏付けられた。


 フィクスの耳に、左手首の青銅のバングルから、ジェミニの思念が届いた。


『……ついに始まったわね、フィクス。あの巨大な城塞も、飯が食えなくなればただの石の檻だったってわけだわ』


(ああ。外からの海の民を警戒していたが、破局の引き金を引いたのは、内側の飢えと制度の機能不全だったな)


 フィクスは心の中で短く相棒に応じ、視線を北東の山並みへと向けた。


「まずは、情報だ」


 フィクスは傍らに控える護衛と従者へ向けて、静かに、しかし澱みのない声で指示を下した。


「アルキノスを呼べ。それから、海運部門の信頼できる船長を一人」


 エルド山地の険しい峠を越えてアルゴリスの内陸へと潜入する陸路の調査隊。そして、ペロポネソス半島の南端を回り込み、アスファリアの沖合から王宮周辺の動向を探る海路の調査船。


 崩壊の渦中にある本国の真実を確かめ、エリミオンがこれから進むべき航路を定めるため、フィクスは二つの道から、密かに調査員を放つ手筈を整え始めた。

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