092 ある女工の創作
カリストの手元では、杼が規則正しい乾いた音を立てて往復していた。
街道沿いに建てられた機織り工房は、天窓から差し込む埃っぽい光と、漂白された亜麻糸の匂いに満ちている。フィロメラ様が共同経営に加わって以来、この工房の女工たちには日々の賃金のほかに、もう一つの得難い恵みが与えられていた。糸の管理や出荷の検品に必要な読み書き――アカイア文字の読み書きを学ぶ機会である。
十九歳のカリストは、手先が器用で、特に神殿へ納める複雑な幾何学模様を織り上げる腕前は工房でも指折りだった。普段はおとなしく、休憩時間にも輪に入らず隅で静かにハーブ水を啜っているような、控えめで真面目な娘だ。
だが、そんなカリストの胸の奥には、人には決して明かせない熱病のような炎が渦巻いていた。
カリストが住む村の告知板には、このところ新しい物語が掲示されていた。前の『エリミン防衛の物語』も素晴らしかった。特に、優しく、強く、部下の命を守るために理不尽を許さない組頭アルケスの生き様には、工房の女工たち全員が夢中になり、カリストもまたその一人だったのだ。
しかし、今度の新連載――全身に青銅の鎧をまとい、二頭の獅子リュラとミナを従えて現れる正体不明の超人『レオンティオス』が登場し、アルケス組頭と肩を並べて戦うようになってから、カリストの中で何かが決定的に壊れ、そして新しく生まれ直してしまった。
(……違う、そうじゃないの)
今日の夕刻、告知板に貼り出された最新回を思い出し、カリストは杼を握る手に思わず力を込めた。
物語では、海から押し寄せた凶悪な略奪者を前に、敵を威嚇する獅子を後ろにレオンティオスが剛剣を振るい、アルケスが率いる小隊の危機を救う。そして戦いが終わった後、降伏して武器を捨てた敵兵を怒りに任せて突き殺そうとする部下の槍を、アルケスが厳しく叩き落とすのだ。
『敵を皆殺しにすれば、相手は死に物狂いで抵抗する。降伏すれば助かると知らしめることこそが、次からの味方の命を救うのだ』
そう説くアルケスに対し、兜の奥から無言で視線を送るレオンティオス。公式の物語では、二人はただ無言のまま互いの武勇と理性を認め合い、がっしりと腕を組み交わして別れる――はずだった。
(あんなに冷たくて硬い青銅の兜の奥で、どうしてあんなにも熱くアルケス様を見つめていられるの……!?)
カリストの脳裏には、告知板の乾いた文章の裏側に隠された、もっと深く、もっと濃密な二人の交わりが、洪水のように溢れ出していた。
超人的な力を持ちながら、世俗の栄誉も名乗りも捨てて孤独に戦い続ける孤高の英雄レオンティオス。そして、泥臭い人間の軍人でありながら、誰よりも深い慈悲と分別を胸に秘めた組頭アルケス。
剛毅な二人の男が、戦火の煙の中で背中を預け合っている。言葉など交わさずとも、互いの呼吸の乱れ一つで何を考えているかが伝わってしまう。アルケスが危険に晒された瞬間、いつもは冷静なレオンティオスがどれほどなりふり構わず駆け寄り、その頑丈な装甲で敵の刃を弾き返したことか――。
仕事を終え、夕闇が工房を包むと、女工たちは三々五々、宿舎や家へと帰っていく。カリストは一人、作業台の陰に残り、作業用の棚からこっそりと薄い粘土板と骨の尖筆を取り出した。
胸が早鐘を打ち、指先が微かに震える。
こんなものを書いていいのだろうか。もし誰かに見られたら、領主館の物語を冒涜したと怒られるのではないか。だが、頭の中で猛り狂う二人の姿を、粘土の上に刻みつけずにはいられなかった。
尖筆を握ると、迷いは消えた。
『夜気を含んだ風が、荒れ野に佇む天幕の布を揺らしていた。
傷の手当てを終えたアルケスが一人、夜警のために立ち上がろうとしたその時、重厚な青銅の擦れる音が背後で響く。
振り返れば、月光を浴びたレオンティオスがそこに立っていた。
「休め」
冷たい装甲の隙間から漏れ出たその声は、昼間の戦場で敵を震え上がらせた響きとはまるで違い、哀しいほどに掠れていた。
「レオンティオス殿……だが、見張りが」
言いかけたアルケスの肩を、硬い篭手が無言で押し留める。
「俺がいる。お前が倒れれば、あの十人の兵は誰が導くのだ」
「……不器用な男だな、貴殿は」
苦笑するアルケスの額に、兜の庇がかすかに触れるほど、巨躯の英雄が顔を近づけた――』
「……はぁっ」
気づけば、二枚の粘土板が細かなアカイア文字で埋め尽くされていた。カリストは上気した頬を手で覆い、熱い息を吐き出す。あまりの尊さに、心臓が口から飛び出しそうだった。
本来なら、この粘土板は誰にも見せず、水で濡らして消してしまうはずだった。
だが翌日の昼下がり、あまりの眠気にうっかり作業台の籠の底に差し込んでおいた粘土板を、隣で糸を紡いでいた同僚のヘクセに目ざとく見つかってしまったのだ。
「ちょっとカリスト、これ何? ……アカイア文字? あんた、いつの間にこんな長いの書けるようになったのよ」
「あ、ダメ、見ないでヘクちゃん!」
顔から血の気が引いたカリストが手を伸ばしたが、文字の読めるヘクセは面白半分に板を掲げ、そこに並んだ文字を目で追い始めた。
静寂が下りた。
ヘクセの視線が、一行、また一行と滑っていく。からかうような笑みは瞬く間に消え去り、やがてその大きな瞳が限界まで見開かれた。口元を両手で押さえ、ヘクセの喉から「ひっ」と押し殺したような奇声が漏れる。
「ちょ、ちょっとこれ……なにこれ……! アルケス様とレオンティオス様が……えっ、夜の天幕で二人きり……!? 嘘でしょ、あの兜の人が、こんな……!」
「ごめんなさい、消すから! 今すぐ潰して水に戻すから許して!」
半泣きで縋り付くカリストの腕を、ヘクセは鬼気迫る形相で掴み返した。
「消すんじゃないわよ莫迦! ……続き! 続きはどうなったの!? アルケス様はこの後なんて返したのよ!?」
「え……?」
「早く言いなさいよ! 天幕の毛布はどうなったの!? 朝まで二人で何を話したのよ!!」
その日の夕暮れ、機織り工房の片隅には、仕事を終えた四人の女工たちが車座になり、息を呑んで一枚の粘土板を回し読みする異様な光景が広がっていた。
「尊い……神々よ、これはあまりに尊いわ……」
「わかる。あの二人がただの戦友で終わるはずがないと思ってたのよ」
「レオンティオス様、普段あんなに喋らないのに、二人きりになると声音が掠れるとか反則じゃない!?」
「カリスト、お願い。明日の昼までに次の話を書いて。糸巻きなら私たちが手伝ってあげるから!」
こうして、真面目でおとなしかった機織り女工カリストの「裏の顔」が幕を開けた。
最初は天幕での語らいだけだったものが、回を追うごとに過熱していった。レオンティオスが敵の毒矢からアルケスを庇って倒れる話、傷ついたレオンティオスの鎧をアルケスが涙ながらに解こうとするが頑なに拒まれる話、さらには「もしも立場が逆で、冷静な軍師アルケスが不器用な狂戦士レオンティオスを飼い慣らしていたら」という左右逆転の別構想まで、カリストの妄想は留まるところを知らなかった。
粘土板は工房内で秘密裏に貸し出され、回覧されるたびに女工たちの間で黄色い悲鳴と熱狂的な議論が巻き起こった。工房の粘土の消費量が妙に増えていることなど、誰も気にしてはいなかった。
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数日後、コトナの館の執務室。
フィクスは、街道整備の進捗と機織り工房の生産日誌を並べて確認していた。卓の向かいにはフィロメラが腰掛け、不思議そうに首を傾げながら、一枚の小ぶりな粘土板を指先でつまみ上げている。
部屋の隅には侍女のアリタが控え、卓の脇には淡い燐光をまとったジェミニが、面白そうに身を乗り出していた。
「フィクス様。工房の検品箱の底から、このようなものが紛れ込んでいたと報告があったのですが……」
フィロメラが差し出した粘土板を、フィクスは何気なく受け取った。
「何だい? 規格外の不良品の報告かな。……どれどれ」
板に刻まれた、几帳面で美しいアカイア文字に目を走らせる。
二行読んだところで、フィクスの目が点になった。
「…………」
五行読んだところで、喉の奥から「ぶふっ」と変な音が漏れかけた。
『ちょっと、何読んでるのよフィクス?』
左手首の青銅のバングルが熱を帯び、ジェミニの覗き込むような思念が脳内に飛び込んでくる。フィクスは震える手で粘土板を凝視したまま、心の中で絶叫した。
(ジェミニ……! これ、告知板の連載を読んだ機織り工房の女の子が書いた、アルケスとレオンティオスの『二次創作』だ……!)
『はあぁぁっ!?』
バングルから信じられないものを見るような声が響き、ホログラムのジェミニが勢いよく身を乗り出して文字をスキャンし始めた。
『ちょ、待ちなさい! なになに……「冷たい青銅の兜を押し当て、二頭の獅子すら立ち入れぬ熱き吐息を交わす二人」……!? いやいやいや! レオンティオスの鎧の中身、そこに立ってる無表情なアンドロイドのアリタよ!? ガワは全身鎧だけど中身は華奢な少女型なのよ!?』
(知るわけないだろ! 読者にとっては「謎の偉丈夫の騎士」なんだから! うわ、見てみろこれ、「頑なに鎧を脱ごうとしないレオンティオスの頑固さを、アルケスは愛おしそうに包み込んだ」って……! 理由が違いすぎる!! 脱いだらアンドロイドだからだよ!!)
頭の中でフィクスとジェミニが爆笑と動揺の嵐に巻き込まれている横で、内容を最後まで読んだフィロメラが、頬をかすかに赤らめながら感嘆の声を漏らしていた。
「……驚きましたわ。文字を覚えたばかりの女工が、これほど感情の機微に満ちた、美しい文章を紡ぎ出すなんて。二人の戦士の魂の結びつきが、まるで本物の叙事詩のように胸に迫ってまいります」
「あ、ああ……そう、だね……」
フィクスは引きつった笑みを浮かべ、乾いた喉をハーブ茶で潤した。
教育格差をなくし、民衆に文字を普及させようと始めた告知板の連載だった。その結果、最初に花開いた高度な文学的表現が「男同士の情熱的な幻覚の記録(二次創作)」だったとは、いったい誰が予想できただろうか。
壁際に控えていたアリタが一歩歩み寄り、至極平坦な声で進言した。
「マスター。作中におけるレオンティオスの出力および関節可動域の描写には、物理的・解剖学的な矛盾が多数散見されますが、修正を指示なさいますか?」
「いや! アリタ、絶対に言っちゃダメだ! 物理法則の問題じゃないから! そのまま作者を放っといてさしあげて!」
フィクスは全力で首を横に振った。
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――それから、三千数百年以上の時が流れた現代。
ギリシャ南西部、かつてのエリミオン領跡地の大規模な発掘現場において、大発見がもたらされた。
崩壊した工房跡の地中深く、頑丈な素焼きの壺に封印された状態で、驚くほど保存状態の良い数十枚に及ぶアカイア文字の粘土板群が出土したのである。
当初、発掘チームの研究者たちは色めき立った。
粘土板には、当時の公的文書には見られない長大な物語が記されており、謎の青銅鎧の英雄「レオンティオス」と、実直な小隊長「アルケス」の壮絶な戦いが描かれていたからだ。アカイア文明における未知の英雄叙事詩、ホメロス以前の最古の神話体系の発見かと、世界中の学会が固唾を呑んで解読作業を見守った。
しかし、解読が進むにつれ、研究室の空気は次第に奇妙なものへと変わっていった。
「……おい、この三枚目の粘土板の訳、本当合ってるのか?」
「ええ。間違いありません。『アルケスの逞しい腕に抱かれ、青銅の騎士は微かに声を震わせた』と明確に刻まれています」
「待ってくれ。こっちの別の束では、同じ二人の立場が完全に逆転して、アルケスの方が組み伏せられているんだが……?」
さらなる調査によって、先行する物語の『エリミンの防衛』及び『英雄レオンティオス』の断片が照合されたことで、残酷な、しかし動かしがたい真実が白日の下に晒されることとなった。
その年の秋、アテネ大学の考古学教授によって発表された論文は、瞬く間にインターネットを通じて世界中を駆け巡った。
『紀元前十三世紀メッセニア地方における民間文学の変遷――粘土板に記録された最古の二次創作と、機織り女工カリストの情熱について』
ネット上の言論空間は、言語と国境を越えた爆笑と熱狂に包まれた。
《人類の魂、三千年前から何も進化してなくて草》
《公式が最大手を供給した結果、工房の女工が自家発電を始めてしまった歴史的瞬間》
《しかも左右リバースまで完備してるの強すぎるだろ》
《カリスト先生、三千年前の元祖・腐女子として教科書に載るべき》
《荒ぶる魂を抑えきれずにホモ妄想を拗らせてた古代のオタク女子、愛おしすぎる》
《学者「未知の神話体系を発見か!?」→ 全力で解読 →「ただの二次創作でした」の流れで腹筋崩壊した》
《論文のタイトルに「機織り女工カリストの情熱」って入ってるのじわじわくる。学会公認のパッション》
《カリスト先生の次回作にご期待ください》
遥かなる時を超え、粘土板に刻まれた熱い妄想は、歴史の闇に埋もれることなく、世界中のオタクたちから「史上初の腐女子」としての至高のリスペクトを捧げられることとなったのである。




