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091 新連載に向けて

 館にある自室の窓からは、西に傾き始めた陽光が柔らかな影を落としていた。卓の上の粘土板には、領内各地の集配所から『エリミン防衛の物語』に寄せられた声が幾つも書き留められている。


 フィロメラが手元に置かれた茶杯をそっと撫で、感嘆の息をつきながら視線を上げた。


「『エリミン防衛の物語』が完結してからも、告知板の前の賑わいは衰える気配がございませんわ。村々の集配所を通じ、『続きはないのか』『あの後のエリミンはどうなったのだ』と、新たな連載を求める声が毎日のように届いております」


「ありがたいことだね」


 フィクスは笑みを浮かべ、手元の粘土板を指先でなぞった。


「民衆がこれほど物語を楽しみに待ってくれているなら、間を置かずに次の一手を打ちたい。そこでなんだが――今度の物語は、ヒーロー物で行こうと思うんだ」


「ひーろー……?」


 聞き慣れない響きに、フィロメラが首を傾げる。その隣で、淡い燐光をまとった等身大の女性の姿をとるジェミニが、吹き出すように肩を揺らした。


『ちょっとフィクス、いきなり直球ね! 前作は「名もなき普通の人々の知恵と役割」をあれだけ泥臭く描いたのに、今度は一転して超人的な英雄譚をやろうっていうの?』


 ジェミニの小気味よい声が響いてくる。


「もちろん、ただの荒唐無稽な勧善懲悪をやるつもりはないよ」


 心の中で相棒に応じ、フィクスはフィロメラに向き直って穏やかに説き始めた。


「以前の物語で、民の避難や物資の備蓄、兵站、そして組頭アルケスを中心とした組織的な戦い方の手本は十分に浸透させることができた。だからこそ次の段階として、さらに一歩踏み込んだ『戦争観』と『価値観』を、領民や軍の心に根づかせたいんだ」


「新たな、価値観……でございますか?」


「ああ。主人公は、頭から爪先まで隙間なく青銅の鎧に身を包んだ、正体不明の英雄だ。名を『レオンティオス』という。彼は言葉少なく、己の素性を明かさず、ただ二頭の獅子――雄獅子のリュラと、雌獅子のミナを従えて、海の民の襲来に苦しむ人々の前に颯爽と現れる」


『へえ! リュラとミナって、うちで飼ってるあの猫たちの名前じゃない!』


 実体化したホログラムのジェミニが身を乗り出し、楽しげに目を細めた。


「二頭の獅子と、全身鎧の英雄レオンティオス……」


 フィロメラはその響きを反芻し、どこか夢見るような光を瞳に宿らせたが、すぐに実務家らしい思案の表情へと引き戻された。


「確かに、子どもから大人まで胸を躍らせる筋書きですわ。ですがフィクス様、これまで私たちが大切にしてきた『普通の人々の協力』とは真逆の、一人の力に頼り切る物語になってしまいませんか?」


「そこが肝心なところなんだ、フィロメラ」


 フィクスは真剣な眼差しで言葉を継いだ。


「この物語を通じて広めたい一番の理念は二つある。『強い者は弱い者を守る』こと、そして『敵であっても、降伏した者は助ける』ことだ」


「降伏した者を、助ける……?」


 フィロメラが驚いたように息を呑んだ。アカイアの尚武の気風において、戦とは敵を打ち倒し、財を奪い、皆殺しにするか奴隷として引き立てることが常識だったからだ。


「海の民を、決して絶対悪としては描かない。彼らの中には確かに凶暴な略奪者もいるが、故郷を天災や飢饉で追われ、生きるためにやむなく海へ出た者たちもいる。英雄レオンティオスは侵略者と苛烈に戦うが、武器を捨てて降伏した敵を無闇に殺すことは絶対にしない。状況に応じて食糧を分け与えて海へ帰すか、あるいはエリミオンの地で真面目に生き直す意志があるなら、武装を解かせた上で受け入れの道を探るんだ」


 壁際に控えていたアリタが静かに歩み寄り、寸分の乱れもない落ち着いた声で口を開いた。


「マスターの意図される戦略的勝利の定義ですね」


「そうだ」


 フィクスは頷き、卓上の木板を指先で軽く叩いた。


「戦の勝利とは、敵を最後の一人まで殲滅することだけじゃない。敵を追い払うこと、降伏させて味方の血を流さないこと、食糧を与えて略奪の動機を奪って帰還させること、さらには降伏した者を受け入れて新たな労働力や技術として取り込むこと――それらすべてが、立派な『名誉ある勝利』なんだ。もし敵を殲滅すべき悪魔だと教えてしまえば、領民も兵も殲滅以外の結末を受け入れられなくなる。だが、英雄レオンティオスが慈悲と分別をもって敵を助ける姿を見せ続ければ、領軍も民衆も、柔軟な講和や受け入れを誇らしく受け止められるようになるはずだ」


 ジェミニがポンと手を打った。


『なるほどね! 農業では一つの作物に頼らず複数育てて旱魃に備え、経済では宮殿分配だけでなく市場取引や陶貨オルを育て、物流では陸運と海運を組み合わせる……フィクスがずっとやってきた「単一の方法に依存しない」っていう柔軟性を、今度は戦争観にも持ち込むわけね!』


「その通りだ、ジェミニ」


 フィクスが笑うと、フィロメラも胸のつかえが取れたように深く頷いた。


「敵を皆殺しにせず、降伏を受け入れることが恥ではなく、むしろ賢く誇り高いことなのだと……それを英雄の口から語らせるのですね。ですが、あまりにレオンティオスが浮世離れした強さを見せすぎると、やはり普通の兵や民が真似できない絵空事になってしまいませんか?」


「そこで、前作で絶大な人気を得た『組頭アルケス』を再登場させるのさ」


「アルケスをですか?」


 フィロメラの顔がぱっと明るくなった。


「ああ、超人的な英雄レオンティオスが『理想』を示す一方で、人間の指揮官であるアルケスには『現実的な合理性』を語らせるんだ。たとえば、降伏した敵を怒りに任せて刺し殺そうとする部下の槍を、アルケスが厳しく制止する場面を入れる。『敵を皆殺しにすれば、相手は死に物狂いで抵抗するようになり、次からの戦いで味方の損害が何倍にも膨らむ。降伏すれば命が助かると思わせるからこそ、敵は武器を捨てるのだ』とな」


『いいわね、それ!』


 ジェミニが楽しげに指を鳴らした。


『情けをかけるのは単なるお人好しじゃなくて、味方の命を守るための優れた手段なんだって、現場の兵士たちにもストンと腑に落ちるわ。アルケスの恋愛模様やユーモアのある日常回も少し混ぜてあげれば、人気もさらに跳ね上がるんじゃない?』


「ああ。そして――」


 フィクスは声を落とし、室内の三人をゆっくりと見渡した。


「この物語には、もっと先を見据えた『仕掛け』がある」


 空気がふっと引き締まる。フィクスは壁際に立つ万能の侍女に視線を向けた。


「物語が領内に定着し、誰もが『全身鎧の英雄レオンティオスと二頭の獅子』をエリミオンの守護者として信じるようになった頃――もし本当にエリミオンが危機に陥ったら、アリタにあの全身鎧を着て、戦場に立ってもらおうと考えているんだ」


 フィロメラが息を呑んでアリタを見つめた。アリタは表情を一切崩さず、静かに頭を垂れる。


「アリタの身体能力なら、人間には到底不可能な重装甲の青銅鎧を身にまとっても、縦横無尽に動ける。そしてジェミニのダンジョンコアとしての能力で、本物と見分けのつかない二頭の獅子――自律型のゴーレムを喚び出して両脇に従えさせればどうなると思う?」


『……物語の英雄が、現実の危機に本物になって現れる、ってわけね』


 ジェミニが思念混じりに呟き、その瞳に驚嘆の色を浮かべた。


「ああ、絶望的な戦況であっても、告知板で親しんできたあのレオンティオスが大地に降り立ったと知れば、領民も兵士も士気を取り戻すはずだ。もちろん、英雄一人にすべてを片付けさせるつもりはない。レオンティオスの役割は、人々に勇気を与え、これまで築き上げてきた街道、内陸の倉庫、軍民連携の努力を無駄にしないことだ」


「もっとも、余程の危機に陥らなければ、レオンティオスは降臨させないよ。あくまで、保険の一つさ」


 フィクスが語り終えると、フィロメラは両手を胸の前で合わせ、熱を帯びた眼差しで微笑んだ。


「物語で民の心を導き、軍の規律を整え、万一の際にはその物語そのものを現実に変えて人々を救う……。これほど壮大で、それでいて温かな防衛策を、私は他に存じませんわ。父や兄たちにも、組頭アルケスの活躍と絡めて、軍の規律として『降伏者の保護』を正式に導入するよう働きかけてみましょう」


「頼むよ、フィロメラ。軍人は、殲滅とか、全滅とか、勇ましい言葉が好きだからね、物語を通じて意識を変えなくてはならないんだ」


 フィクスが頷くと、左手首のバングルからジェミニの快活な笑い声が頭の奥に響いた。


『さあ決まりね、フィクス! 早速、英雄レオンティオスと二頭の獅子の第一話、プロットを書き殴りなさい!』


「了解。みんなの度肝を抜くような、最高の登場シーンを考えてみせるよ」


 軽快に応じながら、フィクスは手元の蝋板に新たな物語の題名を刻み始めた。


レオンティオス イメージ図

挿絵(By みてみん)

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