090 架空戦記への領主家からの反応
居館にある自室の卓には、街道整備の進捗報告等が几帳面に積み上げられていた。
卓を挟んだ向かい側では、家政の記録を改め終えたフィロメラが静かに茶杯を整え、その隣には淡い燐光をまとった等身大の姿――ジェミニが、実体と見紛うばかりの佇まいで腰掛けている。部屋の隅には侍女のアリタが音もなく控えていた。
光の輪郭を揺らし、ジェミニが楽しげに口を開く。
『告知板で連載しているあの物語、あちこちでかなり評判になってるみたいね』
「この時代は娯楽が少ないからね。色々なところで評判を聞くよ。それに、最初の方の連載回を消してしまったから写させてくれって、版木の倉庫にいろんな村や街から代表が粘土を持ってやって来ているよ」
フィクスが苦笑混じりに応じると、ジェミニは面白そうに首を傾げた。
『へえ、そこまでの熱気なの。だったら、絵物語にしてテラコッタに焼いて売るのもいいかもしれないわね』
「それもいい案だな。保管も利くし、絵があれば文字の読めない人でも楽しめる」
『でもね、フィクス。牡牛のような大男をみんなで取り囲んで倒すとか、知恵者が味方の数を多く見せて敵を引き返させるとか、少し話を盛りすぎじゃないの?』
「あはは、そうだね。農民の備蓄だとか、工房の役割、運輸業の活躍みたいな地味な話だけじゃ、誰も興味を持ってくれないと思ったんだよ。だから、少しだけ物語性をね」
相棒と言葉を交わしながら笑っていると、茶杯を置いたフィロメラが柔らかな笑みを浮かべて口を挟んだ。
「兄上も、その物語に随分と興味を持たれているようですよ」
「ああ、リュコメデス殿から、この件で呼び出しがあったよ」
フィクスが応えると、フィロメラは「領軍の責任者ですから」と苦笑した。
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領主館の奥まった一室には、普段の政務とは異なる張り詰めた空気が漂っていた。
重厚な石壁に囲まれた部屋の卓を挟み、エリミオンの領主アルケシラオスと、防衛や街道警備を束ねる長男リュコメデスが腰を下ろしている。フィクスは二人の前に進み出て、静かに礼をとった。
リュコメデスが鋭い眼差しを向け、腕を組みながら口を開いた。
「告知板で連載している物語は、巷で大層な評判になっているようだな、フィクス殿」
「ありがとうございます。人々への緊急時の行動指針の刷り込みという目的は、概ね達成できたかと存じます」
フィクスが淡々と答えると、リュコメデスは身を乗り出し、探るような強い調子で問いを重ねた。
「ところで――海からの襲撃はあるのか?」
「はっ?」
虚を突かれたフィクスが目を瞬かせると、上座に座るアルケシラオスが短く息を吐き、口元に微かな苦笑を浮かべながら助け舟を出した。
「物語の想定があまりに迫真でな。何年も続く天候不順による不作、難民の発生、武装化、周辺地域への略奪、強行移民と、まるで見てきたように描かれている。防衛を担当する者として、リュコメデスは少し引っ掛かっているのだ」
フィクスは内心で安堵しつつ、表情を引き締めて居住まいを正した。
「あくまで、『これは遠き異国の出来事を模した、架空の教えの物語である』との注記通りでございます。ですが、この想定に沿って防衛策を見直すことは、決して無駄にはならないと思います」
「なるほどな……」
アルケシラオスとリュコメデスは顔を見合わせ、深く頷き合った。
後日、領主家、領軍の主だった者、及びフィクスを含めて、海からの襲撃に備えた、早期警戒、伝令、領民の避難、動員、兵站、敵軍の侵入路の想定、決戦地への敵軍の誘導、戦術、勝利条件などについての話し合いが行われることになる。
アルケシラオスが顎髭に手を当て、威厳のある低い声で言った。
「私から、注文が一つある」
「注文、でございますか」
「うむ。領民が危機に遭ったときの行動指針として、物語は誠によくできている。だが、実際に敵が攻め寄せたとき、徴兵された領民は領軍の指揮下に入ることになるのだ。そして、徴集された兵たちは、領軍の古参兵が組頭となり、十人から十五人を束ねて率いる。この領軍と徴集兵の連携のあり方も、物語の中に描いてほしいのだ」
現場で兵を率いる領主家ならではの至極もっともな要請だった。だが、フィクスはただ頷くだけでは終わらせなかった。
「分かりました」
フィクスは二人の目をまっすぐに見据え、言葉を継いだ。
「ただし、条件をつけさせてください」
「条件だと?」
リュコメデスが怪訝そうに眉を動かす。フィクスは穏やかながらも、決して譲らない芯の通った声で説いた。
「領軍と徴集兵の連携は、上からの一方的な押しつけであってはなりません。徴集兵が納得し、信頼して命を預けられるような、良きモデルとなる組頭を描きます。ですから、必ず領軍の兵たちにもこの物語を読ませて、組頭の良きモデルを領軍の内に浸透させてください」
アルケシラオスは目を見張り、やがて満足げに深く頷いた。
「……なるほど。兵を率いる側こそが、良き手本を学ばねばならぬということか。よかろう、約束しよう」
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フィクスは告知板の物語の連載回数を増やし、新たな登場人物を物語の中心に据えた。
その男の名は、アルケス――。
領軍の古参兵であり、十数名の徴集兵を率いる組頭である。
アルケスは、理不尽に兵を怒鳴り散らすことは決してなかった。慣れぬ槍を握って震える若い農民の手を優しく包んで励まし、日々の糧食や履物の手入れに誰よりも気を配る。敵を前にすれば冷静沈着に地形を読み、無謀な突撃を戒めて部下を死なせない知恵を絞り、いざ刃を交えるとなれば、先頭に立って剛槍を振るう――友誼に厚く、優しく、強く、賢く、何より頼りになる組頭だった。
告知板の前に集まる領民たちは、このアルケスの活躍に夢中になった。そして領軍の陣所でも、兵たちが粘土板を回し読みし、「俺もアルケスのような組頭にならねば」と襟を正すようになった。
組頭アルケスは、エリミオン領の民と兵の双方にとって、軍人の理想像となった。特に若い女性の間で絶大な人気を博し、彼を主人公とする数多くの物語が作られることになる。




