009 王宮最高財務官との会話
拙作「ここは小惑星(絶対安全・快適)引きこもり生活」 https://ncode.syosetu.com/n1389mm/ の三人がこの物語世界に転生しました。チラッと「ここは小惑星(絶対安全・快適)引きこもり生活」を読んでいただければ三人のキャラクターが分かるかと思います。
翌朝、目を覚ましたフィクスが最初にしたのは、プロテウスへ先触れを出すことだった。
昨日は倉庫へ向かう途中で捕まったようなものだったが、今日は違う。相手は王宮最高財務官である。いくら本人から「質問があるなら私のところへ来なさい」と言われたとはいえ、仕事の最中に突然押しかけるのはまずい。アリタに人を呼んでもらい、午後に面会したい旨を伝えさせると、朝食を終えていつもの稽古へ向かった。
午前中の予定は、昨日までとほとんど変わらなかった。
ドリュオンに足の運びを直され、レオンを相手に木剣を振り、頭では分かっている動きを身体が再現してくれないことに今日も苦労する。終わる頃には腕が重くなっていたが、昼食を取って少し休むと、フィクスはアリタを連れてプロテウスの執務室へ向かった。
先触れを出していたため、今日は扉の前で待たされることもなかった。
「お待ちしておりました、殿下」
昨日も見た若い書記官に通されて中へ入ると、プロテウスはすでに卓の向こうに座っていた。相変わらず周囲には粘土板が積まれている。昨日との違いは、老人の方からフィクスのための腰掛けを示したことくらいだった。
「さて。昨日申し上げたことは覚えておいでですかな」
「難しい話になる、って話?」
「覚えておられましたか」
「それを聞きに来たんだから」
プロテウスの眉間にいつもの皺が寄った。
「では、昨日の続きから始めましょう。殿下は、王宮が地方の実情をすべて知っているわけではないと気づかれた」
「はい」
「地方から報告は届きます。必要と判断すれば書記官を送り、確かめさせることもある。しかし、すべての村、すべての畑、すべての家畜を、王宮の人間が自ら見て回ることなどできません」
昨日聞いた話だった。
フィクスが頷くと、プロテウスは卓上から一枚の粘土板を取り上げた。
「では殿下。王宮へ届いた報告が正しいかどうか分からぬから、何も決めない――それで済むと思われますか?」
フィクスは少し考えた。
「……済まないよね」
「なぜです?」
「次に何を納めてもらうか決めないといけないから」
「それだけではありません」
プロテウスは粘土板を卓へ戻した。
「集めた物を、どこへ回すのかも決めねばなりません」
その言葉で、フィクスは初日に見た王宮の光景を思い出した。
自分の部屋へ運ばれてきたパン。厨房で使われていた油。浴室で燃やされる薪。倉庫から出ていく穀物。あれらは勝手に必要な場所へ移動しているわけではない。
「兵に穀物が要る。王宮で働く者にも食わせねばならぬ。神々へ捧げる物も要る。工房へ材料を渡さねば、職人は働けません。船を出すなら、そのための物資も必要になります」
「全部、倉庫から出すんだよね」
「倉庫から出す物もあります。地方でそのまま使わせる物もある。いずれにせよ、誰かが決めます」
そこでプロテウスはフィクスを見た。
「どこから、どれだけ集めるか。集めた物を、誰へ、どれだけ渡すか」
昨日まで別々に見えていた二つが、フィクスの中でつながった。
徴収と配分。
入ってくる物と、出ていく物。
そのどちらにも判断が必要になる。
「でも、その判断に使うのが……」
「昨日お話しになった、地方から上がってくる報告です」
フィクスは黙った。
そこでようやく、プロテウスが昨日「難しい話」と言った意味が分かった。
報告が正しいなら問題はない。
だが、正しいとは限らない。嘘をつく者がいるかもしれないし、悪意がなくとも間違えることはある。天候一つでも収穫は変わる。王宮へ報告が届くまでに時間もかかる。
それでも、決めなければならない。
「分からないのに?」
「分からぬからといって、兵に食わせるのをやめるわけにはいきません」
「……そうか」
「今年は不作らしい、という報告が届いたとしましょう。しかし、どの程度悪いのかは分からない。では、その地方の納める量をどこまで減らすのか。減らした分は、別の地方から多く集めるのか。それとも王宮で使う量を減らすのか」
「どこかを減らしたら、その分だけ別のところに影響する」
「その通りです」
プロテウスは淡々と答えた。
「豊作も同じです。多く取れたという報告を信じて多く求めたところ、実際にはそれほど取れていなければどうなるか。逆に、報告を疑って少なく求めれば、集められたはずの物を集め損なうこともある」
「全部確かめてから決めるのは?」
「確かめ終える頃には、次の仕事が始まっておりますな」
プロテウスの口元に、笑みとも諦めともつかないものが浮かんだ。
フィクスには、今度こそ分かった気がした。これは帳簿を細かくすれば解決する問題ではない。王宮が物を集め、それを必要な場所へ配る以上、中央にいる誰かが全体を見て判断し続けなければならない。ところが、そのために必要な情報を完全には集められない。しかも、扱っているのは数字だけではない。
実物だ。
穀物も油も羊毛も青銅も、必要な場所へ実際に運ばなければならない。王宮が把握し、王宮が徴収し、王宮が配る。これが無理だ。
やはり、王宮の管理から外れても物が交換され、人が必要な物を手に入れられるもう一つの経路が必要だ。
「殿下?」
呼ばれて、フィクスは顔を上げた。
「ごめん。ちょっと考えてた」
「何をです?」
「昨日より難しいっていう意味」
プロテウスはしばらくフィクスを見ていたが、それ以上は尋ねなかった。
フィクスも、もう一つの経路ことを話すつもりはなかった。今ここで話したところで、思いつきにしか聞こえない。
それより先に、知るべきことがある。
「プロテウス」
「何でしょう」
「昔の粘土板って、残ってる?」
老人の眉がわずかに上がった。
「物によります。なぜです?」
「今の話を聞いたから」
フィクスは卓上の粘土板を指した。
「地方から来る報告が全部正しいかどうかは分からない。でも、ないよりはあった方がいいんでしょう?」
「当然です」
「だったら、昔のも見てみたい」
「昔のものを見て、何をなさるおつもりです?」
昨日と同じ問いだった。
フィクスは少し考えてから答えた。
「比べたいんです」
「何を?」
「同じ地方から、毎年どれくらい穀物が来てたのか。油とか羊毛とかも。何年か並べたら、毎年同じじゃないのは分かるでしょう」
「それで?」
「どれが正しいかは分からなくても、どこが分からないのかは分かるかもしれない」
プロテウスが黙った。
「ずっと同じくらいだったところが急に半分になったら、何かあったのかもしれない。逆に、毎年大きく変わってるなら、その地方から来る数字は最初からそういうものとして見た方がいい。……違う?」
すぐには答えが返ってこなかった。
やがてプロテウスは椅子から立ち上がると、壁際の棚へ歩いていった。並んでいる粘土板をしばらく眺め、そのうちの一枚へ指を触れる。
「記録は、真実そのものではありません」
「うん」
「残した者が見聞きしたこと、報告されたこと、それを記したものです」
「うん」
「それでも、ご覧になりますか?」
「だから見たいんです」
プロテウスが振り返った。
昨日初めて会ったときとは、少しだけ違う目だった。
「分かりました」
「いいの?」
「私の管理下にあるものに限ります。また、勝手に持ち出すことは認めません。書記官を一人付けます」
「ありがとう」
「礼を言うのは、実際にご覧になってからになさい」
プロテウスは棚いっぱいに並ぶ粘土板へ目を戻した。
「殿下がお考えになっているより、はるかに退屈なものですぞ」
フィクスもその棚を眺めた。
「たぶん大丈夫。倉庫にも三日通えたから」
老人は何も言わなかった。
ただ、その口元がほんの少しだけ緩んだように見えた。




