010 1年後
拙作「ここは小惑星(絶対安全・快適)引きこもり生活」 https://ncode.syosetu.com/n1389mm/ の三人がこの物語世界に転生しました。チラッと「ここは小惑星(絶対安全・快適)引きこもり生活」を読んでいただければ三人のキャラクターが分かるかと思います。
プロテウスがフィクスに王宮の古い粘土板を見せるようになってから、一年が過ぎた。
最初のうち、老人はそれを長く続くものとは思っていなかった。
十三歳の王子が倉庫へ三日も通ったこと自体が珍しかったし、地方から届く報告と実際の収穫が同じとは限らないことに気づいたのも意外ではあった。しかし、それだけなら、利発な少年が一時の興味で普段見慣れぬものに夢中になった、と考えることもできた。まして粘土板である。王族の子供が喜ぶようなものではない。戦車も剣も、異国から届いた珍品もない。あるのは、大麦がいくつ、油がいくつ、羊毛がいくつ、どこから入り、どこへ出たという記録ばかりだった。
一月もすれば飽きるだろう。
プロテウスはそう思っていた。
ところが、フィクスは飽きなかった。
「三年前のアスファリアの油の板はありますか」
その日も、執務室へ入ってきたフィクスは挨拶を済ませるなりそう尋ねた。
十四歳になった身体は一年前より少し背が伸びている。それでも兄たちのような逞しさとは無縁だった。午前中には武術の稽古をしてきたはずだが、そちらの成果については聞くまでもない。稽古場で木剣を持っているときの第八王子は、今でも以前と変わらぬ死んだような目をしている。
粘土板を前にすると、それが変わった。少しだけ目に光が宿る。
「三年前?」
「はい。できれば、その前年と翌年も」
「何を調べておられるのです」
「まだ分かりません」
またそれか、とプロテウスは思った。
一年前から、この王子はすぐには結論を言わない。
「分からぬものを探しているのですか」
「今年の数字だけなら変じゃないんです。でも、去年と比べると少し多い。その前と比べると、もっと多い」
「豊作だったのでしょう」
「そうかもしれません」
フィクスは否定しなかった。
「だから、その前後も見たいんです」
プロテウスは脇に控えていた書記官へ目を向け、古い記録を持ってくるよう命じた。
ほどなく三枚の粘土板が加わる。
フィクスはそれを順番に眺め始めた。
最初の頃は、読むだけでも時間がかかった。書記官に尋ね、文字を指で追い、単位を間違え、別の品目を見ていることさえあった。それが半年ほど経つ頃には質問が減った。今では必要な板を渡しておけば、しばらく黙っている。
プロテウスは自分の仕事へ戻った。
そのつもりだった。
「……プロテウス」
「今度は何です」
「この年、アスファリアで何かありました?」
「何か、とは」
「分かりません。油が減ってます」
「不作だったのでは?」
「大麦は減ってません」
刻筆を持つプロテウスの手が止まった。
フィクスはまだ粘土板を見ている。
「葡萄酒も、それほど変わってない。でも油だけ減ってる。次の年には戻ってます」
「ならば、その年だけオリーブの出来が悪かったのでしょう」
「そうかもしれません」
また、それだった。
フィクスは自分の考えにしがみつかない。
違う説明を示されれば、いったん受け取る。しかし捨てもしない。
「地方から何か報告が来てませんか。天候でも、病気でもいいです」
「そこまで残っているかは分かりません」
「なければ、それでいいです」
プロテウスは若い書記官へ指示を出そうとして、やめた。
「殿下」
「はい?」
「なぜ油だけなのです」
フィクスが顔を上げた。
「え?」
「今、殿下は油だけが減っているとおっしゃった。三年分の板を見ただけで、なぜそれに気づかれたのです」
「……減ってたから?」
質問の意味が分からないという顔だった。
プロテウスはそれ以上聞かなかった。
それこそが、この一年で何度も見てきたことだった。
フィクス自身は特別なことをしているつもりがない。
一枚の粘土板を読んだだけで何かが分かるわけではない。むしろ、目の前の一枚だけなら熟練した書記官の方が速く正確に読める。
奇妙なのは、そのあとだった。
去年はどうだった、と言い出す。
その前年は。
別の土地では。
大麦は。
羊毛は。
徴収量が変わったのなら、その年の配分はどうなった。
最初の問いから離れていくように見えて、しばらくすると戻ってくる。そのときには、数枚だった粘土板が十枚、二十枚と卓に広がっている。そして本人も、何を探しているのか途中まで分かっていない。
それなのに、あるところで突然止まる。
「これ、同じ頃じゃないですか?」
そう言って、離れた場所に置かれた二枚を指すのである。
プロテウスには、その二枚がなぜ結びついたのか分からないことがあった。
説明を聞けば分かる。
分かるからこそ、気味が悪い。
何十枚もの記録を一つずつ覚えているのではない。フィクスの中では、それらがいつの間にか互いにつながっているらしい。
その能力が最初にはっきり現れたとき、プロテウスは偶然だと思った。
二度目には、記憶がよいのだと思った。
三度、四度と続いた頃には、考えを改めた。
――この子は、見ているものが違う。
王宮には優秀な書記官がいる。
数字を間違えぬ者。文字を速く刻む者。倉庫の在庫を頭に入れている者。地方ごとの納付量に詳しい者。
フィクスは、そのどれでもなかった。
数字そのものより、数字と数字の間を見ている。
しかも厄介なことに、本人はそれを大した能力だと思っていない。
「ありました」
書記官の声で、プロテウスは思考を戻した。
古い報告の板が運ばれてくる。
フィクスは受け取ると、また黙って読み始めた。
しばらくして、その指が止まった。
「オリーブの出来が悪かったみたいですね」
「ならば、それで終わりでしょう」
「はい」
あっさりと板を置いた。
「……それだけですか?」
「それだけですけど」
「殿下は、そのためにこれだけの板を?」
「確かめたかったので」
プロテウスは額に手を当てた。
以前なら、無駄な仕事を増やすなと叱っていただろう。
今は叱れない。
この一年、フィクスがそうやって何も見つけなかったことは何度もある。そして、その何度かに一度、本当に妙なものを拾い上げる。
だから確認させるしかない。
「殿下」
「はい」
「今日のところは、それで終わりになさい」
「もう?」
「もう、ではありません。昼からずっとここにおります」
窓の外を見たフィクスが、ようやく時間に気づいたらしい。
「……本当だ」
「アリタ殿も待っておられますぞ」
壁際に控えていたアリタは、何も言わず一礼した。
フィクスはまだ少し名残惜しそうに粘土板を見たが、素直に立ち上がった。
「じゃあ、また明日」
「明日来ることを当然のように言わないでいただきたい」
「駄目ですか?」
プロテウスは答えなかった。
フィクスも、もうそれが拒絶ではないと知っている。
礼をして部屋を出ていく少年を見送り、扉が閉まると、プロテウスは卓上に残された粘土板へ目を落とした。
一年前、自分は第八王子を、武芸にも政治にも関心を持たぬ少年だと思っていた。
今も、王宮の大半の人間はそう思っている。
それでよい、とプロテウスは思う。
少なくとも今は。
王宮という場所では、才を示せば必ずしも幸せになれるとは限らない。まして王子ならなおさらだった。王がこの子の能力を知れば、面白がるかもしれない。兄たちが知れば、別の意味で興味を持つ者も出るだろう。
どちらも、プロテウスには望ましくなかった。
何より、この奇妙な才能を政争などに使わせるのは惜しい。
武芸で身を立てられなかった自分が、粘土板の中に居場所を見つけたように、この少年もまた、剣とは別のところに自分の場所を見つけつつある。
プロテウスは卓上の粘土板を一枚取り上げた。
油の徴収量が記された、ごくありふれた一枚だった。
自分なら、この一枚を正確に処理する。
フィクスは、この一枚が別の何十枚とどうつながっているのかを探し始める。
最高財務官として長く数字を扱ってきたプロテウスにも、それがどこまで伸びる能力なのか、まだ分からない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
あの日、倉庫の書記官を困らせるくらいなら自分のところへ来いと言ったのは――どうやら、とんでもないものを呼び込んだらしい。




