011 王からプロテウスへの下問
王に呼ばれたと聞いたとき、プロテウスにはおおよその見当がついていた。
フィクスが自分の執務室へ出入りするようになって、もう一年になる。最初の頃ならともかく、これだけ長く続けば人の目にもつく。まして相手は第八王子である。武術の稽古を終えると財務を扱う一角へやってきて、古い粘土板を何枚も出させ、ときには日が傾くまで帰らない。それを面白がる者もいれば、プロテウスが王子に財務を教え込んでいるのではないかと勘繰る者もいる。
いずれ王の耳にも入るだろうとは思っていた。
ただ、もう少し遅ければよかった。
広間へ入ると、アガメムノン三世は奥の席にいた。人払いをしたらしく、普段なら周囲にいる近臣たちの姿は少ない。プロテウスが進み出て礼をすると、王はすぐには用件を切り出さず、手元にあった杯を置いた。
「プロテウス」
「はい、陛下」
「近頃、フィクスがお前のところへ入り浸っているそうだな」
やはりそれか。
「入り浸る、というほどではございません」
「では、どの程度だ」
プロテウスは一瞬だけ言葉を選んだ。ここで下手に否定すれば、かえって王の関心を強める。
「よく参られます」
「同じではないか」
「……左様でございますな」
王の口元がわずかに動いた。
「何をしている」
「粘土板を読んでおられます」
「粘土板?」
「古いものを」
王の眉が寄った。
「何のために」
「面白いのだそうです」
今度こそ、アガメムノン三世は露骨に怪訝な顔をした。
「面白い?」
「殿下がそう申されますので」
「穀物がいくつ納められた、油をいくつ出した、羊が何頭いる――そのようなものがか」
「私にお尋ねになられましても」
「お前は一日中それを見ておるではないか」
「仕事ですので」
王はしばらくプロテウスを見たあと、鼻から息を吐いた。
「お前と似たのか?」
「それは殿下に失礼でございましょう」
「お前にも失礼だと思うがな」
プロテウスは答えなかった。
冗談めいたやり取りの間にも、王がこちらを見ていることは分かっていた。単に息子の奇行を面白がって呼んだのではない。王子が最高財務官のもとへ一年も通っている。それが何を意味するのかを確かめようとしている。
「財務を学ばせているのか」
やがて王が尋ねた。
「尋ねられたことには答えております」
「お前から教えているのではない?」
「殿下は、ご自分で疑問を見つけて持ってこられます。私はそれに答えるだけでございます」
嘘ではない。
むしろ、この一年でプロテウスが最も困らされたのがそこだった。
フィクスは教えたことを覚えるだけの少年ではない。一枚の粘土板を渡せば、その数字を数年前の記録と比べる。別の地方と比べる。穀物の話をしていたはずなのに、家畜の頭数を持ち出し、港から入った物資を思い出し、まるで頭の中に王国そのものを広げているように、離れた記録を結びつけてしまう。
半年前、プロテウスはそれを他人の前で見せるなとフィクスに言った。
間違っているからではない。
当たるからだ。
「それで」
王の声に、プロテウスは思考を戻した。
「一年も続けて、何か身についたのか?」
来たか。
プロテウスは王の目を見た。
ここで何と答えるかは、あらかじめ考えていた。
「多少は」
「多少?」
「少なくとも、一年前より粘土板を読むのは速くなりました」
「それだけか」
「数字もよく覚えておられますな」
「書記官にでもするつもりか?」
「王子殿下を私の部下にはできません」
王が笑った。
プロテウスも口元だけで応じながら、内心では慎重に次の言葉を待った。
「妙な話も聞いたぞ」
「どのような?」
「フィクスが何かを言うと、お前が古い記録を調べさせることがあるそうだな」
笑みが消えそうになった。
誰が見ていた。
書記官たちに口止めまではしていない。フィクスが来ていることそのものを隠しているわけでもない以上、完全に伏せることなどできない。
「ございます」
否定しなかった。
「何を言う」
「大したことではございません。数字が妙だと」
「それで?」
「調べます」
「当たっているのか」
プロテウスは少し間を置いた。
「外れることもございます」
それも嘘ではない。
「当たることも?」
「ございます」
王が黙った。
プロテウスはその沈黙を急いで埋めなかった。
「どのくらいだ」
「何がでございます?」
「フィクスは使えるのか、と聞いている」
プロテウスは王を見返した。
一年前なら、迷う必要などなかった。
武芸に秀でるわけでもなく、政治にも軍事にも関心を示さない第八王子。王位を争う兄たちの陰に隠れ、これといって目立つところのない少年。
今は違う。
プロテウスが何十枚もの粘土板を卓に並べて初めて気づくことを、フィクスは以前見た記録を頭の中から引き出して結びつける。新しい数字を見れば、それが王国のどこにつながるのかを探し始める。
それを王にそのまま伝えれば、どうなるか。
おそらく王は試す。
そして使えると分かれば、使う。
「まだ十四歳でございます」
プロテウスは答えた。
「それは知っている」
「それに、殿下がしておられるのは財務の仕事ではございません」
「では何だ」
「古い粘土板を眺め、気になったことを私に尋ねている。それだけです」
王の目が細くなった。
「お前は一年も、それに付き合っているのか」
「私も物好きなのでしょう」
「それで済ませるには、お前は忙しすぎる男だと思っていたが」
さすがに誤魔化しきれない。
プロテウスは小さく息を吐いた。
「陛下」
「何だ」
「殿下は、私の仕事を邪魔されません」
王は黙って聞いている。
「分からぬことがあれば尋ねられます。しかし、分かったつもりになって口を出されることがない。もっと徴れとも、ここへ回せとも仰らない。記録を読み、なぜそうなっているのかを考えておられる。それだけでございます」
初めて倉庫でフィクスを捕まえた日のことを思い出した。
なぜ調べるのかと問うた自分に、少年は答えた。
分からないまま考えても、たぶん間違えるからです、と。
「私は、それが気に入っております」
今度は本当のことを言った。
アガメムノン三世はしばらく何も言わなかったが、やがて椅子の背へ身体を預けた。
「つまり、お前が可愛がっているだけか」
「そのように思っていただいて結構です」
「武術の方は相変わらずだそうだな」
「私にお尋ねになりますか?」
「聞くまでもないか」
「はい」
王は低く笑った。
「まあよい。粘土板が好きなら読ませておけ。少なくとも遊び歩くよりはましだ」
「承知いたしました」
プロテウスは深く頭を下げた。
退出を許され、広間を出てからも、しばらく歩調を変えなかった。
角を一つ曲がり、王のいる広間が見えなくなって、ようやく息を吐く。
思っていたより早かった。
王はまだ、フィクスを「粘土板に凝っている変わった第八王子」と見ている。それでいい。武術は駄目、政治にも目立った関心を示さず、最高財務官のところへ行って古い記録を眺めている。王宮での評価は、その程度で十分だった。
だが、今後は少し気をつけなければならない。
自分がフィクスの言葉を受けて書記官を動かすところまで、すでに誰かが見ている。
執務室へ戻ると、当の本人がいた。
卓の端に粘土板を三枚並べ、何やら考え込んでいる。プロテウスが入ってきたことに気づくと顔を上げた。
「どこ行ってたの?」
「陛下のところです」
「父上?」
「殿下のことで呼ばれました」
フィクスの手が止まった。
「俺、何かした?」
その顔を見て、プロテウスは思わず額へ手を当てた。
一年前と何も変わらない。
「殿下」
「はい」
「しばらく、ここへ来る回数を減らしていただけますかな」
「……邪魔だった?」
「逆です」
「え?」
プロテウスは扉の外に人影がないことを確かめてから、声を落とした。
「目立ち始めました」
フィクスはしばらく黙っていたが、やがて卓上の粘土板へ目を落とした。
「粘土板読んでるだけなのに?」
「殿下は、それでよろしいのです」
「?」
「これからも、そう思っていてください」
意味が分からないらしく、フィクスは眉を寄せた。
プロテウスはそれ以上説明せず、少年の前に並んでいる三枚へ目をやった。
「それで、今日は何を見つけたのです?」
「ああ、これなんだけど」
フィクスの顔がすぐに変わった。
「去年の北の羊毛の記録、ちょっと変じゃない?」
プロテウスは深く息を吐いた。
どうやら回数を減らせと言った意味は、半分も伝わっていないらしい。




