088 架空戦記の連載
フィクスの居館にある執務室には、夕暮れ前の穏やかな風が石の窓枠を抜けて吹き込んでいた。卓の上には、素焼きの壺に生けられた野の花と、冷たいハーブ茶の入った器が並んでいる。
フィクスは、領内の各集落やナバルノ港の辻に設けられた告知板――普段は領内、海外の出来事や、領主館からの触れ書きが掲示されるその場所に、まったく新しい試みを持ち込もうと考えていた。
向かいには、帳簿の整理を終えたばかりのフィロメラが、落ち着いた仕草で茶杯に手を添えている。その隣の椅子には、淡い燐光をまとった等身大の女性の姿――ジェミニが、実体と見紛うばかりの自然な佇まいで腰掛けていた。部屋の隅には侍女のアリタが静かに控えている。
「告知板の片隅を使って、続きものの『物語』を書いて掲示してみようと思うんだ」
フィクスが切り出すと、茶を口に運ぼうとしていたフィロメラが、驚いたように青い瞳を見張った。
「物語……でございますか? 告知板に、そこに吟遊詩人が歌うようなお話を?」
「ええ。ですが、神々の英雄譚や昔の武勇伝ではありません。海を越えて押し寄せる正体不明の略奪者たちの船団がエリミオンに攻め込んできた時、この土地がどうやって防ぎ、どう生き残るかという、架空の戦いの記録です」
フィクスがそう答えると、ジェミニの小気味よい声が響いた。
『ふふ、要するに大衆向けの「防衛シミュレーション小説」ってわけね。防災訓練のシナリオを、娯楽の皮をかぶせて配るつもりでしょう?』
「そう。正面から『防衛の心得』を訓示しても誰も読まないし、不安を煽るだけだからね」
心の中で相棒と頷き合いながら、フィクスはフィロメラに向き直った。
「もしも『海の向こうから大船団が襲来するかもしれないから警戒せよ』とお触れを出せば、領民はただ怯えるか、あるいは現実味のない脅しとして聞き流してしまうでしょう。それでは防衛の準備になりません。だからこそ、物語の形をとるのです。登場人物たちが海上に異変を察知し、どうやって狼煙を上げ、どの道を通って女子供を山へ逃がし、内陸の倉庫から物資をどう運ぶのか――読み進めるうちに、エリミオンの地理や避難路、協力の仕方が自然と頭に入るようにしたいのです」
「……なるほど」
フィロメラは茶杯を卓に置き、深く考え込むように視線を落とした。領主家で育ち、日々の所領運営と民の心理をよく知る彼女には、その意図が急速に腑に落ちたようだった。
「確かに、ただ『逃げろ』と命じられても、人は混乱して家財にしがみつき、道を塞いでしまいます。ですが、物語の登場人物が『港を捨てて内陸の倉庫へ退避し、そこで態勢を立て直して勝った』という話をあらかじめ知っていれば、万一の時にも同じように動こうと考えるかもしれませんわね」
『でしょ?』
実体化したホログラムのジェミニが、楽しげに身を乗り出して口を挟んだ。
『それにね、フィロメラ。この連載にはもっと実用的な狙いがあるのよ。物語の続きが気になれば、文字を読めない人だって、読める誰かの周りに集まって「読んでくれ」って頼むようになるわ。そうすれば、告知板そのものに人が集まる習慣ができるし、自然と文字を覚えようとする意欲も湧く。何より、「次に何が起きるか」をみんなで話し合う土壌ができるのよ』
「文字の普及と、定期的な情報の伝達……」
フィロメラが感嘆の息を漏らすと、壁際に控えていたアリタが一歩歩み寄り、寸分の乱れもない礼儀正しさで言葉を添えた。
「マスター、その企画にはさらなる運用上の利点がございます」
「利点?」
「はい。物語の中で防衛体制を描くことは、そのまま我々自身の防衛計画の検証――机上演習になります。海の民がナバルノ湾のどこから上陸し、内陸のどの倉庫や拠点を狙うか、現在整備している街道や定期便の輸送網が避難と兵站にどう機能するかを、物語を組み立てる過程で細部まで洗い出すことが可能です」
「確かにその通りだな」
フィクスは頷いた。平時に整備してきた内陸の分散倉庫や、荷馬車の定期便網が、実際に海からの急襲を受けた際にどう機能するのか。物語として具体的な時系列と地形に当てはめて描いてみれば、計画の穴や補給の滞りが生々しく浮き彫りになるはずだ。
フィロメラが微笑み、卓上の木板をそっと指先でなぞった。
「敵が攻めてくる恐ろしい話であるはずなのに、読み終えた後には『これなら私たちも守り抜ける』と希望が持てる……そんな物語になれば、領民もきっと次の貼り出しを心待ちにいたしますわ。父や兄たちも、これなら反対するどころか、喜んで告知板の利用を後押ししてくれるはずです」
「よし、決まりだね。まずは第一話――『ナバルノ沖の黒い影』あたりから、構想を練り始めよう」
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後日、領主家との話し合いで、「海からの襲来を描くことで、住民が不安になるのではないか」、「商人が危険を感じてナバルノへの寄港を避けるのではないか」、「敵にエリミオンの防衛方法を知らせることにならないか」等の懸念点が出された。
これらに対して、『これは遠き異国の出来事を模した、架空の教えの物語である』と注記する。
物語の土地はエリミオン領に似ているが、地名はエリミン領、ナバロン港等の架空のものとする。
物語には避難、連絡、備蓄、協力などの考え方を盛り込むが、実際の兵力、兵器の配置、倉庫の位置、防衛上の情報は書かないことを条件として、告知板での物語の連載が領主家から許可された。




