↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
87/100

087 養子

 コトナの館の居室には、初夏の乾いた風が中庭から吹き抜け、日除けの麻布を静かに揺らしていた。卓の上には、素焼きの甕から注がれた冷たい水と、領主館から届いたばかりの書状を模した粘土板が置かれている。


 フィクスはその泥の板に刻まれた線文字を指先でなぞりながら、小さく息を吐き出した。卓を挟んで向かい合うフィロメラは、亜麻の衣の裾を端正に整え、夫の手元をじっと見つめている。


「……領主館から、正式に話が来たよ」


 フィクスが静かに切り出すと、フィロメラはわずかに身を乗り出した。


「父上からの、例のお話でございますね」


「ああ。次男殿の息子――今年で十三歳になる甥御を、子供のいない私たちの養子に迎えないかという打診だ」


 左手首の青銅のバングルが、かすかに温もりを帯びる。他者の耳には届かないジェミニの思念が、頭の芯へ直接響いてきた。


『予想通りの一手ね。街道の定期便が領内を網の目のように結び、屈強な傭兵たちが護送や土木工事の名目で日常的に動いている。外から見れば、ナバルノ商会とフィクスは、いつの間にか領主家に匹敵する動員力と経済力を握りつつあるわけだから』


(……アルケシラオス殿が警戒するのも無理はないよな)


 フィクスは内心で相棒に応じながら、最近の領都の様子を思い返した。領主館の門前や武器庫の周囲に立つ直属兵の数を増やしているようだ。街道整備や定期便の警備に傭兵を常時雇用するにあたっては、領主家の不信を招かぬよう周到に手を打ってきたはずだった。通常の護送指揮と戦争の指揮権を明確に分け、領外への軍事行動や大規模な動員は領主家との協議事項とし、雇い入れている傭兵の頭数や武器の員数は定期的に粘土板で報告する。その上、警備の責任者には領主家が心から信頼を置く人物を据えるという念の入れようだった。


 だが、それでもなお、領主家にとって「実績を積み、領民の信望を集めるフィクス」の存在は、大きくなりすぎていたのだ。


 今回の養子縁組の打診は、血筋を結び直すという融和の体裁を取りながら、フィクスに領主の座を脅かす野心がないかを測るための、踏み絵でもあった。


「私には、領主家になりかわろうなどという野心は爪の先ほどもない」


 フィクスはフィロメラの目をまっすぐに見据えて言った。


「私が望んでいるのは、このエリミオンの地を豊かに整え、いつか訪れるかもしれない災厄から民の暮らしを守ることだけだ。領主の座を奪い取るような真似をすれば、領内は割れ、かえって破局を招く。だから――この養子の話は、ありがたく受ける方針で進めたいと思っているんだ」


 そこで言葉を切り、フィクスは少しだけ表情を和らげた。だが、その瞳の奥には夫としての申し訳なさが滲んでいた。


「ただ……これは家政を切り盛りし、実際に母となる君の負担になる。政の都合を押し付ける形になってしまうが、フィロメラ、君の気持ちを聞かせてほしい」


 フィクスとフィロメラの間に、実子はまだ生まれていなかった。政略の具として他人の子を引き取ることを、妻がどう受け止めるか。慎重に見守るフィクスの前で、フィロメラはふっと口元を緩め、青い瞳を柔らかく輝かせた。


「何を心配なさっているのですか、フィクス様」


 彼女の口調には、憂いどころか、純粋な喜びの色が宿っていた。


「私はむしろ、とても嬉しいのです。あの子は私の甥にあたりますから、幼い頃から領主館で顔を合わせておりましたし、気立てのよい真っ直ぐな子ですわ。これまでこの館は、フィクス様の実務の場としては整っておりましたけれど、少し静かすぎましたもの。十三歳といえば食べ盛りで、手もかかるでしょうけれど……家の中が賑やかになるのは、とても素敵なことです」


 拍子抜けするほど朗らかな返答に、フィクスは思わず目を丸くした。


「……嫌じゃないのか? 領主家からの警戒や、政治的な思惑が絡んでいるというのに」


「思惑は思惑として、大人の男たちが勝手に計らえばよいのです」


 フィロメラは事も無げに微笑み、卓上の水の器を両手で包み込んだ。


「あの子がこの館に来るからには、私がしっかりと母親として育て上げますわ。フィクス様の背中を見て、数字を学び、現場を敬い、民を思いやる立派な跡取りに仕立ててみせます。そうすれば、父も兄たちも、もう余計な疑いを抱かなくなるはずでしょう?」


 実務家としての冷静な計算と、母性からくる大らかな温かさ。その両方を兼ね備えた妻の頼もしさに、フィクスは胸を撫で下ろすと同時に、深い感謝を覚えた。


『ふふっ、さすがフィロメラね。男たちの権力闘争の裏を、笑顔で受け止めて我が子にしてしまおうっていうんだから。頼もしい義母上様だわ』


 バングルからジェミニの小気味よい笑い声が届き、壁際のアリタもまた、かすかに顎を引いて肯定の意を示した。


「フィロメラ様の仰る通りです。養子の受け入れは、領主館との軍事的な緊張を緩和し、ナバルノ商会の事業基盤を盤石にする上で極めて合理的な一手です。青年の教育および生活環境の整備については、即座に準備に着手可能です、マスター」


「……ありがとう、二人とも」


 フィクスは苦笑しつつ、もう一度粘土板に目を落とした。


 踏み絵として差し出された十三歳の少年。だが、このコトナの館に迎え入れ、新しい世界の知恵と仕組みを共に学んでいくなら、彼はいずれ領主家とフィクスとを繋ぐ、最も強固な架け橋となるはずだった。


「よし、決まりだ。領主館へ、喜んで受諾する旨の返書を送ろう。――フィロメラ、新しい家族を迎える準備を頼むよ」


「はい、お任せくださいませ」


 柔らかな光が差し込む部屋に、晴れやかな笑い声が静かに溶けていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。