084 ダモン②
メリサ村の広場に据え付けられた大きな告知板の前に立ち、ダモンは指先で唇を触りながら、そこに並ぶ文字の列を熱心に追っていた。
以前の彼にとって、それは単なる線の集まりでしかなかった。だが、あの食堂での食事のあと、メランポスに頭を下げて手ほどきを受け、今では大方の意味を拾い上げることができるようになっている。メランポスが働く皮革工房の親方も、ダモンが文字を学びたがっていると知ると嫌な顔ひとつせず、手習い用の文字と数字の一覧表を気前よく貸し出してくれたのだ。「フィクス様はな、身分や立場が誰であれ、文字を覚えることを強く勧められているんだ。遠慮なんかせずに持って行って勉強しな」と、その親方は笑って背中を叩いてくれた。
板に目を凝らせば、隣村での収穫の様子や、ナバルノ港に入港した交易船の荷揚げといった身近な報せが並んでいる。さらにその下には、海の向こうにある遠い島や異国の都市で起きた出来事までが、記されていた。自分たちが一生かけても辿り着けないかもしれない遥か彼方の世界の出来事が、この乾いた板の上に言葉となって届けられている。その事実を噛みしめるだけで、ダモンの胸の奥には、抑えきれない高揚感が湧き上がってくるのだった。
視線を板の右下隅へと落とす。そこには、赤褐色のテラコッタで作られたエリミオンの地図が、しっかりと木枠にはめ込まれていた。地図の右下隅には、ナバルノ商会の名とイルカ印が焼き込まれている。
地図には、今自分が立っているメリサ村の名が刻まれていた。そこから太い一本の線が伸び、南の果てにあるナバルノの港へと繋がっている。
――いつも見慣れている、あの埃っぽい街道の先は、本当に海へ届いているんだ。
自分が工房で削り出し、車輪を嵌め、組み上げた馬車を走らせて、この道を真っ直ぐに下っていったらどんな気分だろう。潮風が吹き抜けるナバルノの船着き場で、帆を膨らませた巨大な船を見上げる自分自身の姿を、ダモンは無意識のうちに思い描いていた。
「……っと、いけねえ」
肩に担いでいた麻袋の重みに気づき、ダモンは慌てて我に返った。鍛冶屋へ親方から頼まれたノミの焼き入れを受け取りに行く、使いの途中だったのだ。長居をしすぎれば、また親方の怒号が飛んでくる。
急ぎ足で歩き出しながら、ダモンは数日前の苦い記憶を思い出して、無意識に自分の頭を撫でた。
メランポスから聞いた工房の整理整頓の話にすっかり感化されたダモンは、自分の働く馬車工房でもそれを試そうとしたのだ。だが、意気揚々と口を開いた途端、親方の頑固な拳で頭を小突かれた。
『若造の偉い様の入れ知恵か! 素人が現場の何を知ってるってんだ!』
親方の怒りは凄まじかった。今にして思えば、言い方が拙かったのだ。フィクス様の工房では道具を片付けて仕事をしやすくしているのだと、無邪気に引き合いに出してしまった。長年の勘と経験だけで工房を切り盛りしてきた親方にとって、外から来た貴族の流儀を引き合いに出されたことは、己のやり方を頭ごなしに否定されたように思えて我慢ならなかったのだろう。結局、馬車の工房は今も削り屑と材木が足の踏み場もなく転がり、散らかったままだ。
だが、ダモンは諦めなかった。
親方に怒られない範囲で、自分の作業台の周囲だけを片付けることにしたのだ。足元に散らばる端材は隅の木箱にまとめ、よく使うノミや木槌、手斧は、使う順に定位置を決めて並べた。
効果はすぐに現れた。
道具を探して工房内をウロウロと探し回る無駄な時間が消え、作業への取り掛かりが早くなった。材料の取り違えや加工のミスが目に見えて減り、小僧仲間が一つ部材を削り出す間に、ダモンは二つの作業を正確に終えられるようになったのだ。
初めは胡散臭そうに横目で見ていた親方も、ダモンの手際の良さと仕上がりの確かさには、何も文句を言えなくなった。それどころか、最近では粗削りの下準備だけでなく、車輪のホゾを合わせるような少し難しい仕事まで、ダモンに任せるようになっていた。
(……間違ってなかったんだ)
ダモンは麻袋を握り直し、前を向いて歩調を速めた。
親方の腕前は本物だ。だが、フィクス様の言う「整理整頓」もまた、間違いなく現場を助けてくれる本物の知恵だった。いつかあの地図の街道を、自分が最初から最後まで手掛けた完璧な馬車で走り抜けるために――今は親方の技を盗みながら、少しずつ、自分の腕を磨いていこうとダモンは心に決めていた。




