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085 ダモン③

 工房に差し込む西日が、削り屑の舞う作業場を黄金色に染め上げていた。


 ダモンは作業台の前で息を整え、仕上がったばかりの車輪のスポークの表面を手のひらで撫でた。節を避けて綺麗に木目を走らせた樫の木肌は、吸い付くようになめらかだ。周りの職人たちからは相変わらず「小僧が生意気に片付けばかりしやがって」と揶揄されることもあったが、整然と並べた道具から迷わず鑿を選び、狂いなく木を削り出せるようになってからは、ダモンの手元から生み出される部材の質は工房の誰よりも安定していた。


 いずれは荷台の組み上げだけでなく、頑丈な車軸の仕込みまで一通りを任せてもらえるようになるかもしれない。親方の背中を見つめながら、ダモンがそんな将来の職人姿を思い描いていた、まさにその日の夕暮れだった。


 一日の仕事を終え、職人たちが革のエプロンを外して帰る支度をしていた時、親方が低くしゃがれた声で一同を呼び止めた。


「……みんな、ちょっと手を止めて聞いてくれ」


 普段なら「さっさと片付けて帰れ」と怒鳴る親方が、珍しく背中を丸め、油の染みた分厚い両手を膝の上で固く握りしめている。その深い皺の刻まれた顔には、これまで見たこともないような影が差していた。


「急な話で本当にすまねえんだが……この工房を、今月いっぱいで畳むことにした」


 ざわり、と工房の空気が揺れた。年配の職人が息を呑み、兄弟子のひとりが「親方、冗談だろ」と乾いた笑い声を漏らす。だが、親方は力なく首を振った。


「冗談なもんか。……俺ももう、目が霞んで細かい墨付けが見えなくなってきた。腰もこのざまだ。俺に継がせるガキがいればまだしも、それもいねえ。いつまでも無理を言って、お前さんたちの面倒を見きれる年じゃなくなっちまったんだよ」


 親方はそれきり、深く頭を下げた。長年、頑固一徹で弟子たちを怒鳴り散らしてきた老職人の肩が、小さく震えている。


「済まねえ。……本当に、済まねえ」


 何度も何度も頭を下げて詫びる親方の姿に、職人たちもそれ以上は言葉を継げなくなった。怒る者はいなかった。誰もが、親方の衰えと、時代の流れに抗えなくなっていたこの工房の限界を、どこかで薄々感じ取っていたからだ。


 だが、親方は決して彼らを放り出すつもりはなかった。長年培った己の顔と人脈を総動員して、職人たち一人ひとりの次の働き口を奔走して見つけてきていたのだ。


 翌日、ダモンは親方に呼び出され、二つの道を示された。


「お前は筋がいい。このまま木を触り続ければ、いい職人になる」


 親方はダモンの顔をじっと見つめ、指を二本立てた。


「一つは、メリサ村から山を一つ越えた隣村にある工房だ。俺の兄弟弟子がやってる馬車工房でな、腕の立つ親方だ。お前の手際の良さを話したら、喜んで引き取ると言ってくれた。そこへ行けば、このまま馬車の仕事を一から十まで覚えられる」


 そして親方は、もう一本の指を揺らした。


「もう一つは……このメリサ村にある木工の工房だ。あそこは馬車専門じゃねえ。日用品や農具、建具なんかの木製品を広く扱っている。ただ、村の連中も知っての通り、あそこはフィクス様が共同で経営してる工房だ。新しいやり方をあれこれ試してるらしくてな。お前の几帳面な働きぶりなら、案外あっちのほうが水に合うかもしれねえと思って話を通してみた。……どうする、ダモン。決めるのはお前だ」


 ダモンは親方の言葉を胸の中で反芻した。


 兄弟弟子の工房に行けば、目指していた「馬車職人」の修行をそのまま続けられる。だが、そこは親方の修行仲間が仕切る場所だ。話を聞く限り、仕事のやり方は今までと何ら変わらない。図面もなく、親方の勘と「大体これくらい」という手の幅を頼りに、散らかった作業場で怒鳴られながら技を盗む――そんな昔ながらの世界であることは明白だった。


 それに、生まれ育ったメリサ村を離れたくはなかった。ここには時折食堂で語り合えるメランポスもいるし、あの広場の告知板もある。


 だが何より、ダモンの胸を強く揺さぶったのは「フィクス様との共同経営」という言葉だった。


 メランポスが語っていた、あの皮革工房の風景が鮮やかに蘇る。無駄なものを捨て、道具の定位置を決め、現場を磨き上げることで、誰もが迷わず正確に作業を進められるようにする合理的な知恵。自分自身の作業台でその威力を身をもって知ったダモンにとって、フィクスが持ち込んでいるという「新しいやり方」は、遠い王族の戯れ言などではなく、現場の職人を確かに助ける本物の力に思えてならなかった。


 それに、昔気質の親方は、若い貴族が口を出す工房に思う所も有ったはずであるが、ダモンのために節を曲げ、頭を下げて木工工房に話を通してくれたのだろうとも思った。ダモンは、そういった、親方の思いも受けて留めたうえで、親方の目をまっすぐに見据えた。


「親方。……俺、村の木工工房に行かせてください」


 親方は少し困ったような、それでいてどこか納得したような笑みを浮かべた。


「そうか。……あっちを選ぶか。お前が作業台の周りをせっせと片付けてたのを見た時から、薄々そんな気はしてたよ。あそこなら、お前のその妙な几帳面さも、無駄にはならんだろうさ」


 親方はそう言うと、節くれだった分厚い手でダモンの肩をぽんと叩いた。その手の温もりを感じながら、ダモンは住み慣れた工房の壁を見渡した。


 親方の勘と頑固さから学んだ木を削る手の感覚。そして、これから飛び込む新しい工房で出会うであろう、フィクス様の進める新しい世界のやり方。


 ダモンの視線の先には、街道の向こう、まだ見ぬ海へと繋がる未来が、開け始めていた。

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