078 エリミオンの地図②
領主アルケシラオスの許可が下り、卓上の緊張が解けかけたその時だった。
テラコッタの地図を熱心に覗き込んでいた長男リュコメデスが、ふと眉を動かし、板の右下隅を指先でトントンと叩いた。
「……待ってくれ、フィクス殿。先ほどから気になっていたのだが、なぜ、ナバルノ商会のイルカ印がここにあるのだ? ……それに『ナバルノ商会』とも彫られているではないか」
アルケシラオスも視線を落とし、怪訝そうに目を細めた。領主家の公認として配るエリミオンの地図に、一商会の名と商標が堂々と焼き付けられているのは、確かに不自然に映る。
「気づかれましたか」
フィクスは表情を崩さず、むしろ待っていた問いであるかのように静かに笑みを浮かべた。
左手首の青銅のバングルから、ジェミニの小気味よい思念が直接頭の中に届く。
『さあ、商人フィクスの本領発揮ね。領主様たちに広告宣伝費とスポンサーシップの概念を叩き込んであげなさい』
(任せて)
心の中で相棒に応じ、フィクスは二人の前に居住まいを正した。
「まず大前提として申し上げます。このテラコッタの地図板を数百枚焼き上げ、領都やナバルノ港、さらには主要な村々へ運び込んで告知板の脇に据え付ける費用――土の代金、窯の薪代、職人の手間賃、運搬の荷車や人足の費用に至るまで、すべてナバルノ商会が全額を負担いたします。領主館からも、各村の共有財からも、麦一粒たりとも出させるつもりはございません」
リュコメデスが目を丸くし、アルケシラオスがわずかに身を引いた。
「すべて商会持ちだと……? それほどの莫大な元手をかけて、いったい何の見返りがあるというのだ。まさか、この小さな印を入れるためだけにそこまでするのか?」
「はい。この小さな印こそが、費用を補って余りある果実をもたらすからです」
フィクスは穏やかな口調のまま、理路整然と説き始めた。
「第一に、商会の認知度が領内全体で一気に跳ね上がります。民や旅人が道や村を確かめるたび、必然的にこのイルカ印とナバルノ商会の名が目に入ります。文字を十分に読めない農民であっても、『イルカ印=ナバルノ商会』という形は直感的に覚えられるのです。アカイア文字が普及の途上にある今、言葉以上に図像は強力な力を持っています」
フィクスは卓の上で指を軽く組み、言葉を続ける。
「港の倉庫、油壺、荷車、さらには荷札に至るまで同じイルカ印を掲げております。地図で印を覚えた者は、港や市場でイルカ印を見た瞬間に『あの地図の商会だ』と結びつける。それ自体が他にはない強固な信用になるのです」
「ふむ……」
アルケシラオスが顎髭に手を当て、思案の表情を浮かべる。
「さらに、街道を行き交う旅人や外から来た商人たちの足取りを想像してみてください。地図を見ることそのものが、『エリミオンで商いをするならナバルノ商会』という案内になるのです。
「なるほど……」
現場で街道警備や関所を預かるリュコメデスが、深く頷いた。
「その通りです、義兄上。そして何より、『旅の役に立つ便利な地図を、自らの掛かりで作っている商会』という評判が立ちます。単に物を買い叩いて売り抜けるだけの浅ましい商人ではなく、この土地の交易を支えている頼もしい商会だという印象が根づくのです。ましてや――」
フィクスは領主アルケシラオスの目をまっすぐに見据えた。
「領主館のお許しを得た告知板の隣に置かれるのですから、民や外の商人から見れば『領主様が公認した確かな商会』にほかなりません。領主家の権威が、そのまま商会の揺るぎない信用へと転化されるのです」
アルケシラオスが低く唸り声を漏らした。商人の策謀を警戒するような目ではなく、その合理性に感嘆する目だった。
「もし、商人がこの地図を他の土地へ持ち出せば、ナバルノ商会の名も一緒に海を渡る、ということだな?」
「ご明察の通りです。エリミオンの外にまで商会の名が広がり、やがて他の都市の商人たちがナバルノを訪れた際、『この地図を作った商会なら、土地の事情にも明るいに違いない』と、宿や倉庫の手配、運送の人足、船便の相談をまず我が商会へ持ち込んでくるようになります」
フィクスは微笑み、最後にこう付け加えた。
「ナバルノが栄えれば、競争相手も出てくるでしょう。ですが、幼い頃からこのイルカ印を見慣れて育った領民や、この地図を見て海を渡ってきた異国の商人たちからのナバルノ商会への信用は一朝一夕に覆されるものではなくなります。そして、私が出資している製材、陶器、ワイン、オリーブなどの各工房にも、このイルカ印を順次使わせてまいります。商会の名とイルカ印は、関連するすべての工房の品に最高の箔をつけることにもなるのです」
執務室に静かな余韻が広がった。
リュコメデスは感服したように息を吐き、父である領主を見やった。
「父上……驚きましたな。ただの粘土板一枚に、そこまでの仕掛けを幾重にも張り巡らせていたとは。領主館にとっても、費用を一切出さずに領民に。断る理由などどこにもございません」
アルケシラオスは深く頷き、テラコッタの右下に刻まれた二頭のイルカを指先で愛おしそうに撫でた。
「敵わんな、フィクス殿。領民を束ねる統治の道具でありながら、己の商いを何倍にも育てる種子でもあったわけだ。……よかろう。ナバルノ商会の名とイルカの印章を刻んだまま、この地図を領内くまなく配ることを認めよう」
「ありがとうございます」
ナバルノ商会の印象イメージ図




