077 エリミオンの地図①
告知板の設置について領主の合意を取り付け、広間の空気がわずかに緩んだところで、フィクスはもう一つの包みに手を伸ばした。
この日のために、陶工エウメロスの窯で何度も試作を重ねさせた特注の品だった。
傍らに控えるクレオンが、傷をつけぬよう丁寧に巻かれた厚手の麻布を解く。現れたのは、羊皮紙でもパピルスでもなく、赤褐色にしっかりと焼き締められた大判のテラコッタ製の板だった。
「……粘土板か? だが、ずいぶんと細工が細かいな」
領主アルケシラオスが怪訝そうに目を細めた。長男リュコメデスも卓の上へ身を乗り出し、焼き物の表面を凝視する。
そこには、文字の羅列ではなく、入り組んだ海岸線と波の模様、連なる山並み、蛇行する川の筋、そして点在する城や村の印が、精緻な彫り込みと黒い顔料によって見事に焼き付けられていた。
「エリミオンの地図にございます」
フィクスが静かに告げると、二人の視線が一気に鋭さを増した。
地理や道筋の知識とは、軍勢を動かし、関所を構え、徴税を行うための最高度の軍事機密にほかならない。書記官やごく一部の指揮官だけが秘匿するべき知恵を、このような焼き物にして人前に晒すなど、常識の枠を大きく踏み越えていた。
「地図だと……? まさかフィクス殿、これを先ほどの告知板と同じように、街や村々に配るつもりではあるまいな」
リュコメデスが眉をひそめ、警戒を露わにした低い声を漏らした。日頃から領内の防衛を統括している彼だからこそ、その危険性に誰よりも早く気づいたのだ。
「そのまさかでございます、義兄上。領都やナバルノ港、そして主要な村の告知板の脇に、この土板を一枚ずつ掲げたいと考えております」
「正気か!」
アルケシラオスが厳格な声で遮った。卓に置かれた拳に力が籠もる。
「道や山、水場を記した図など、外部に漏れれば敵に攻め口を教えてやるようなものだ。海からの略奪者や近隣の豪族がこれを見れば、どの道を通り、どの村を襲えばよいか一目で分かってしまう。軍事の要諦をみすみす民草に晒すわけにはいかん」
至極尤もな懸念だった。
左手首の青銅のバングルから、ジェミニの冷静な声が頭の中へ直接届く。
『予想どおりの食いつきね。軍事機密としての地図と、領民に世界の形を教えるための地図の違いを、しっかり説明しないとね』
(ああ、わかっている)
フィクスは心の中で応じ、穏やかな笑みを崩さずにテラコッタの板の表面を指先でなぞった。
「アルケシラオス殿、義兄上、ご懸念は重々理解しております。ですが、この板をよくご覧ください。ここには軍事機密と呼べるような細かな情報は、一切描いておりません」
二人が視線を落とす。フィクスは指先を動かしながら、描かれた要素を順に示していった。
「記されているのは、外海と湾の大まかな海岸線、北にそびえるエルド山地、そしてネドン川をはじめとする大きな河川の流れ。町や村についても、領都とナバルノ港、それに街道沿いの主だった集落の位置を象徴的な記号で示しただけでございます。小道や裏山、隠し砦、水源の細部、兵の配置や備蓄庫の場所などは一切省いております」
「……確かに、大雑把な輪郭にすぎぬな」
リュコメデスが腕を組み、顎を撫でながら呟いた。
「ええ。街道を行く旅人や羊飼いなら誰でも知っている地形を、ただ一枚の板の上に整理しただけにすぎません。外敵が攻め寄せるための手引きにはなり得ないのです。では、なぜ私がこれほどの労力をかけてこの板を焼き、配ろうとしているのか」
フィクスは一度言葉を切り、二人の目をまっすぐに見据えた。
「エリミオンの普通の農民にとって、『世界』とはどこまででしょうか」
問いかけに、アルケシラオスがわずかに眉を寄せた。
「……自分の耕す畑と、住まう村。せいぜい隣村か、年に数度足を運ぶ市場や領都の広場くらいのものだろうな」
「その通りです。彼らの生きる世界は極めて狭い。山の向こうや川の向こうは、彼らには縁遠い地にすぎず、隣の谷の出来事ですら自分とは無関係だと思い込んでいます。だからこそ、凶作が起きても隣村を助けようとせず、外から略奪者が来ても『自分の村さえ襲われなければよい』と門を閉ざしてしまう」
フィクスはテラコッタの板の中央、太い枠線で囲まれた領域を手のひらで包むように示した。
「ですが、この地図を見ればどうでしょう。自分の暮らす村も、隣の村も、行き交う市場も、威容を誇る領都も、異国の船が集まるナバルノ港も、すべてこの一つの枠のなかに描かれている。『あなたの村はここにある』という印を指し示すだけで、民は初めて、自分たちが生きている世界の形を客観的に認識できるのです」
アルケシラオスが息を呑み、卓上の板を凝視した。統治の経験が長い彼には、その言葉の持つ重みが即座に理解できたのだ。
「……世界の枠、か」
「告知板で、ある村の出来事を知った領民は、エリミオンの地図で、その村がどこにあるのかを知る。このようにして、自然と、領民はエリミオン領に住む者が、同じ枠の中で、共に生きる者だという意識を持つようになるでしょう」
フィクスの声には、揺るぎない確信が満ちていた。
「外からの脅威に立ち向かうとき、最も強固な盾となるのは城壁の高さではありません。民が『自分たちの領を守るのだ』と信じ、互いに手を取り合って団結できるかどうかです。この板はそのための、領民の心の礎となるはずです」
執務室に深い静寂が落ちた。
やがて、リュコメデスが感服したように息を吐き出し、口元に笑みを浮かべた。
「父上……フィクス殿の申される通りかもしれませぬ。もし我らが民に『エリミオンを守るのだ』と命じたとしましょう、しかし、我らは、今まで領民にエリミオンの全貌を見せたことなど、一度もございません。それでは、漠然としすぎているのです。守るものを明確に認識できない領民も意気の上がらぬことでしょう」
「しかし、この地図を普段から見ることになる領民は、山間のアグリオンの羊飼いも、海岸の漁民も、農民も、自分たちの生活が、この枠の中、この地にあるのだと認識できるはずです」
アルケシラオスはゆっくりと目を閉じ、深い思索の海に沈んだ。
そして静かに目を開けると、その怜悧な瞳に温かな納得の光を湛え、テラコッタの板を力強く指先で叩いた。
「……相分かった。軍事の機密に触れぬ地図であるならば、異存はない。告知板とともに、各所に据えることを許そう」
エリミオンの地図イメージ図




