076 告知板②
執務室を満たしていた沈黙を破ったのは、領主の長男リュコメデスの低い感嘆の声だった。
「なるほど……。領主館からの命令を伝えるだけではない、ということか」
リュコメデスは立ち上がり、卓上の図面に顔を近づけた。日頃から現場で兵や人足を差配している彼ならではの実務的な感覚が、この提案の核心を捉え始めていた。
「父上、これは統治の手間を大きく減らすやもしれません。毎年、税の割り当てや賦役、街道の補修を言い渡すたび、各村の長から『そんな話は聞いていない』だの『隣の村とは話が違う』だのと不満や言い訳が上がってまいります。使者が口頭で伝える間に話が歪むことも珍しくない。だが、領都と港の板に同じ文面が掲げられ、いつでも確かめられるとなれば、そうした言い逃れは一切通用しなくなります」
「それだけではありません、義兄上」
フィクスはリュコメデスの言葉を引き取るように、穏やかに、しかし力強く言葉を重ねた。
「最も恐ろしいのは、根拠のない噂や流言です。旱魃の兆しが見えたとき、あるいは海の向こうで争いが起きたとき、人々は得体の知れない恐怖から勝手な憶測を広げ、穀物を抱え込み、市場を混乱させます。ですが、『政庁が確かめた正しい事実』が常にあの板に張り出されると知っていれば、民は根も葉もない噂に踊らされず、まず告知板を見に行くようになります」
上座のアルケシラオスが、杯を指先で弄びながら低く問うた。
「各村の状況を載せると申したな。それは具体的にどういう利をもたらすのだ。他の村の窮状など、自分の畑で手一杯の農民が知って何になる」
「大いに関係いたします」
フィクスは即座に答えた。左手首のバングルから、ジェミニが『事実を積み上げて、納得させなさい』と背中を押してくる。
「たとえばある村で家畜の病が出たとします。それをいち早く板で知らせれば、近隣の者たちは、早い段階で家畜の移動を制限して備えることができます。また、ナバルノ港の動きも同じです。港にどの船が入り、何を求めているのか。葡萄酒か、オリーブ油か、羊毛か。それを知ることができれば、村の生産者や職人たちは無駄なく荷を仕立て、適正な値で商人に渡すことができる。無駄に買い叩かれることを防ぎ、エリミオン全体の富の流出を防ぎます」
アルケシラオスが眉を寄せ、思案するように目を細めた。
「確かに、いまのナバルノにはエジプトやレバントの船が日常的に出入りしておる。フィクス殿の言うとおり、海の向こうの戦乱や不作、交易路の異変をいち早く知ることは、エリミオンの判断を左右する。リュコメデスよ、防衛の観点からはどう見る」
問われたリュコメデスは、引き締まった面持ちで深く頷いた。
「極めて有用かと存じます。我らが最も苦慮するのは、有事の際の徴兵や動員でございます。何の前触れもなく突然『槍を持って集まれ』と命じれば、民の心には反発と不信しか残りませぬ。しかし、もし平素から告知板を通じ、『キプロスで都市が襲われた』『避難民を乗せた船が逃れてきた』『不審な船団が南の海を伺っている』と、段階的に知らせが届いていればどうでしょう。民は自らの肌で危機の接近を感じ取ります。いざ動員をかける段になっても、己の村と家族を守るための備えであると納得して応じるはずです」
「その通りです」
フィクスは二人の理解の深さに内心で安堵しながら、さらに統治の本質へと踏み込んだ。
「人は、知らない事を恐れ、知らされないことに怒りを覚えます。『領主様は自分たちに何も教えてくれない』と思えば、支配は力による抑え込みでしかなくなります。しかし、『領主様は知り得た事実を自分たちにも分け与えてくれる』と感じれば、民の領主に対する信頼は揺るぎないものになります。何より……隣村の出来事、領都の祭礼、ナバルノに入った船の知らせを等しく目にすることで、人々は初めて、自分の狭い村の中だけでなく『エリミオンという一つの領』に生きているのだという一体感を抱くようになるはずです」
「エリミオンの一体感、か……」
アルケシラオスが低く呟いた。その言葉の響きには、単なる地方豪族の枠を超え、一つの領邦を統べる領主としての強い自負が滲んでいた。
「さらに副次的な利点もございます」
フィクスは少し口元を緩め、親しみやすい調子で付け加えた。
「生活や商売に役立つ情報が板に書かれているとなれば、文字を読める者が明確に得をいたします。いま領都やナバルノでは、平民の間でもアカイア文字を学ぼうとする動きが広がっておりますが、この告知板はその動きをさらに力強く後押しするでしょう。民が文字を解し、正確に意思疎通ができるようになれば、領内の産業も行政も、一段と強固なものになります」
「ふむ……」
アルケシラオスは長く息を吐き、組んでいた腕を解いて机に置いた。
その双眸には、もはや迷いの色はなかった。
「話は分かった。要するに、一方的に命令を押し付けるための板ではなく、領内を巡る血潮のように情報を循環させる仕掛けを作りたいのだな。……悪くない。いや、実にそなたらしい案だ」
領主はリュコメデスへと顔を向けた。
「領都の中央広場に板を立てる場所を選定せよ。雨風に耐え、民が集まりやすく、かつ政庁の兵の目が届く場所だ。木材の手配と大工の割り当ては領主館で受け持つ」
「承知いたしました。ナバルノ港の設置場所については、フィクス殿と相談して船着き場の最も目立つ位置を確保いたしましょう」
頼もしく応じるリュコメデスの顔に、フィクスは心からの礼を込めて頭を下げた。
「寛大なお取り計らい、感謝いたします。板に記す知らせの選定や、版木の作成、版木を運び告知板に押し当てる者、書記の読み上げの当番など、運用の細目についてはエリミオンの実務官たちを交えて速やかに詰めさせていただきます」
「うむ。まずは領都と港の二か所で民の反応を見る。首尾よく運べば、アグリオンをはじめとする山間や街道沿いの主要な村々にも順次広げていくとしよう」
アルケシラオスの力強い言葉とともに、話し合いはまとまった。




