075 告知板①
買収した老商人ハンノの商会が黒字へと転じ、事業が淀みなく回り始めたのを見届けたフィクスは、商会の屋号と印章を刷新した。商会の名を「ナバルノ商会」と改め、商会の印章を丸の中に二頭のイルカと定めた。港の倉庫群の壁や、積み出されるオリーブ油の素焼き壺には、いまやイルカ印が刻まれ、寄港する異国の船乗りたちの間でも目印として定着しつつあった。
ナバルノ商会の印象イメージ図
だが、フィクスにとって商会の再建は、単に利潤を上げることだけが目的ではなかった。
海外との交易を通じて、東地中海各地の情報を確保することこそが、真の狙いだった。
そしてその情報は、手元に秘匿しているだけでは意味をなさない。領主や住民たちと共有してこそ、初めて価値を持つ。
秋風がオリーブの葉を銀色に波打たせる午後、フィクスは領都にある領主館の執務室を訪れていた。
重厚な木組みの天井の下、卓を囲んでいるのは三人だった。
上座には、深く刻まれた眉間の皺の奥に怜悧な光を宿すエリミオンの領主アルケシラオス。その傍らには、領主の長男リュコメデスが控えている。妹であるフィロメラを心から可愛がり、フィクスとも早くから気脈を通じてきたこの嫡男は、日頃から領内の巡回や防衛の実務を担っており、頼もしい体躯と柔軟な思考力を併せ持っていた。
「フィクス殿。ナバルノ商会の立ち上げ、見事な手腕であったな」
リュコメデスが親愛の籠もった笑みを浮かべ、杯に注がれた葡萄酒に口をつけた。
「港の古参連中も驚いていたぞ。傾きかけていたハンノの店が、イルカの印を掲げた途端に息を吹き返したのだからな。いまや港の問屋どもも、あのイルカの壺なら中身に間違いはないと競って買い取っている」
「ありがとうございます、義兄上。帳簿を洗い直し、取引の流れを整えただけのことですよ。その後は、従者や商会の者が良くやってくれたおかげです」
フィクスが穏やかに応じると、卓の正面で腕を組んでいた領主アルケシラオスが、鋭くも温かみのある視線を向けてきた。
「謙遜はよせ。商売が立ち行かなくなるのは、往々にして人の欲と怠惰のせいだ。それを正した手腕は疑いようもない。……して、そなたの従者に持たせてきたその大判の革袋には、何が入っているのだ?」
領主の慧眼に、フィクスは薄く笑みを漏らした。
左手首の青銅のバングルから、ジェミニの小気味よい思念が直接、頭の中へ届く。
『さあ、いよいよ本番よ。お堅い領主様をあっと言わせてやりなさい』
フィクスは従者のクレオンに目配せし、卓の上に絵図面を置かせた。それは木の板に、木炭を用いて描かれた一枚の図面だった。
アルケシラオスとリュコメデスが、同時に身を乗り出して覗き込む。
「……板、か? 屋根が付いているようだが」
リュコメデスが怪訝そうに眉を寄せた。
描かれていたのは、二本の頑丈な角柱に支えられ、雨露をしのぐ切妻屋根を備えた木造の構造物だった。中央の広い面は複数に区切られ、それぞれの枠のなかに絵と文字が整然と配されている。
「はい。一言で申し上げれば、領内各地に立てようと考えている『告知板』にございます」
「告知板……? 領都の広場やナバルノの船着き場にある、高札板のようなものか?」
アルケシラオスの問いに、フィクスは頷いた。
アカイアの都市や大きな村の広場には、領主館からの命令や税の布告を記した木板――いわゆる高札板が置かれている。
「その高札板を、より広く、生きた形で活用する仕組みです。いまの高札板は、年に数度、領主の触れを伝えるためだけにしか使われておりません。しかし私が考えておりますのは、日々の暮らしや商いに直結する知らせを、定期的に取り替えて載せるための板なのです」
フィクスは図面の区画を指先でなぞりながら、順を追って説明を始めた。
「まず、これを領都の市場やナバルノ港、街道の結節点など、日常的に人の行き交う要所に設置いたします。載せるのは領主館や政庁が認めた公の知らせです。いつ祭礼を行うのか、どの道を修理するのか、あるいはどこの水場が涸れかけているのか。そうした住民の生命と生活に関わる事柄を記します」
「ふむ……だが、一度書けば板が埋まってしまうのではないか?」
リュコメデスが素朴な疑問を口にした。
「そこが従来の高札板と大きく異なるところです。この図のように、複数の粘土板の嵌め込んでおきます。知らせが古くなれば粘土板を濡らして文字を消し、新たな版木を押し当てて、記事を更新します。石碑のような記念物ではなく、内容が次々に更新されるのです」
「……誰が見るのだ? 役人か、それとも特定の商人か?」
「文字の読める者であれば、農民でも職人でも、水夫でも旅人でも、誰でも見られるようにいたします」
フィクスの言葉に、アルケシラオスがわずかに眉を動かした。古代の統治において、公の文書とは一部の支配層や書記官が独占する特権だったからである。
「誰でも、だと? 勝手な落書きや嘘が書かれたらどうする。民が惑わされよう」
「ですから、領主館や政庁が内容を確認した証として、公認の印を必ず押します。印のないものは取り除き、罰する規則を定めます。そして、知らせは、粘土板に版木を押し当てて記しますので、記事の内容は、領都とナバルノ港、さらには主要な村々に置いた告知板で、同じ物となるのです」
「だがフィクス殿」
リュコメデスが腕を組み、顎を撫でながら指摘した。
「エリミオンではアカイア文字を学ぶ者が増えているとはいえ、領民の多くは未だ文字を読めぬ。農夫や羊飼いが板の前に立ち止まったところで、ただの黒い染みにしか見えまい」
「ええ、その通りです。人が多く集まる朝夕の刻限には、政庁の書記や役人が板の前に立ち、内容を声に出して読み上げる運用をいたします」
フィクスは確信を込めて言葉を継いだ。
「一度耳で聞けば、文字の読める者が読めない家族や仲間に言い伝えます。そして何より、この板には領主様からの命令だけでなく、各村や港から上がってきた知らせも載せるのです。『どこそこの村で麦が足りない』『ナバルノにキプロスの交易船が入った』『街道の石橋が崩れた』――そうした生きた情報を政庁で吟味し、告知板を通じて領内へ流します」
アルケシラオスは無言のまま、卓上の図面を鋭い双眸で見つめていた。
どのような構想かは理解できたのだろう。だが、領内全域にそのような大掛かりな仕掛けを張り巡らせるとなれば、木材の手配から書記の配置まで、決して小さくない労力と費用がかかる。
「……構想としては面白い。だが、いきなりエリミオン中の村々に板を立てて回るなど、手間も人手も追いつかんぞ」
「無論でございます。最初から全域に広げるつもりはございません。まずは最も人の集まる領都の中央広場と、ナバルノ港――この二か所だけで試したいと考えております。人々が本当に足を止め、知らせを見て役立ててくれるのかを確かめた上で、徐々に主要な村へと広げていけばよいのです」
フィクスは呼吸を整え、まっすぐに領主の目を見据えた。
「領主様のお言葉を領内へ正しく伝え、各村と港から集まる知らせを皆で共有する仕組みを作りたいのです。そのための第一歩として、告知板設置のお許しとご協力をいただけないでしょうか」
部屋の空気が静まり返り、二人の統治者の視線が、卓上の木枠の図面へと深く注ぎ込まれた。




