074 事業買収④ (改革)
買収の合意が整うと、フィクスは即座に商会の改革を行った。
彼がまず手をつけたのは、売上を無理に伸ばすことではなく、滞っていた流れを整え、見えないところで垂れ流されていた損失を削ぎ落とすことだった。
ナバルノの倉庫に積まれていた無数の壺には、一つひとつ木片の札が付けられ、商品名、産地、数量、入庫日、品質の等級が正確に記録された。通路を塞ぐように雑然と置かれていた荷は動線に合わせて整列され、奥に眠る古い品から先に出庫されるよう、明確な置き場の区割りが敷かれた。
「フィクス様、本当にこれをこの値で出すおつもりですか。あと二月待てば、島から買い付けの船が来て一割は高く売れますのに」
以前のやり方に慣れた帳場の男が、オリーブ油の甕を前に躊躇いがちな声を上げた。だが、フィクスは穏やかに首を横に振った。
「二月待てば、その間に油の質は少しずつ落ちる。その壺を置く場所のせいで新しい荷が入れられず、代金として回収できるはずの銀や青銅も手に入らない。今すぐ一割安く売って次の商いを回した方が、商会全体としてはよほど多くの実りを得られるんだ」
さらに、持ち込まれる葡萄酒やオリーブ油を一括りに扱うこともやめさせた。
例えばオリーブ油をであれば、香り高く濁りのない極上の品は富裕層や贈答用として相応の対価をつけ、通常の品質のものは一般の交易船へ卸す。酸味の出たものや搾りかすに近い油は、安価な料理用や工房の灯火用として港の食堂や職人たちへ速やかに売り切った。用途と客層を切り分けることで、かつて「売れ残り」として底に沈んでいた荷が、次々と確実な富へと変わっていった。
そして何より劇的な変革は、仕入れのやり方そのものだった。
これまでは「あやふやな噂の下に、とりあえず集められるだけ集め、倉庫に積み上げてから買い手を探す」という投機的なやり方だった。フィクスはそれを根本から改め、海を越えたキプロスやテュロス、クレタの代理人たちへ定期的な便を送らせ、現地の需要を細かく報告させた。
各地で何が不足し、何が余り、相場や収穫はどう動いているか。寄港する船の数や船賃、さらには航路の治安に至るまでを事前に把握し、求められている品と量だけをエリミオンの生産者から集荷して積み出す。
商会は「ただ商品を集めて埃をかぶらせる場所」から、「正確な情報に基づいて商品を迅速に動かす結節点」へと、その姿を変えていった。
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改革を始めてから一年が経つ頃、ナバルノの商会の帳場には、以前の淀んだ空気は微塵も残っていなかった。
風通しの良くなった倉庫の中では、運び込まれたばかりの新しい壺が規則正しく並び、荷役たちが淀みない足取りで荷を船へと積み込んでいる。
机の上に広げられた粘土板を検分していたフィクスは、クレオンがまとめた数字の並びを見つめながら、ふと呟いた。
「売った総量そのものは、以前と比べて一割ほど増えた程度だな」
その呟きに応じるように、左手首のバングルから、ジェミニの小気味よい思念が直接頭の中へ届いた。
『そうよ。売上を増やしたのではないわ。損失を減らしたのよ』
ジェミニの声は、どこか得意げだった。
『以前は百仕入れても、甕の破損や油漏れ、倉庫で腐らせたり買い叩かれたりで、七十八くらいしかまともに売れていなかったのよ。それが今は、仕入れたほぼすべてが適正な価格で右から左へ流れていく。運ぶ途中の無駄が消え、壺の品質が守られ、不良在庫が消えて倉庫が常に回っている。だから売上が一割増えただけでも、手元に残る利益は以前とは比べものにならないのよ』
(倉庫が広く見えるくらい、荷が留まらなくなったからな)
フィクスが笑みをこぼすと、傍らで帳簿を閉じた老商人ハンノが、呆れたような、それでいて深い敬服を帯びた溜息を吐き出した。
「まさか、商売のやり方をここまで根こそぎ変えられるとは思っていませんでしたよ。仕入れを絞り、安値でも売り払えと命じられたときは肝が冷えましたが……手元の金が滞ることなく回り、代理人たちからも『届く荷の質が揃っていて捌きやすい』と感謝の手紙が届く。二年間の給与どころか、この調子なら約束の成功報酬もしっかり受け取れそうだ」
ハンノの顔に刻まれた皺は、もはや困窮に喘ぐ商人のものではなく、自らが築いた人脈が息を吹き返したことを喜ぶ古参番頭のそれだった。
だが、フィクスにとって真の収穫は、帳簿の上の黒字にとどまらなかった。
定期的にナバルノへ届く代理人たちの手紙には、商売の数字と共に、フィクスが求めていた東地中海世界の生の息遣いが克明に刻まれていた。
キプロス周辺での天候不順による不作の兆候。テュロスの港で傭兵の募集が急増しているという噂。北の島々で海賊が出たという情報。海を隔てた彼方で起きている事柄が、交易の報告という日常の仕組みを使って、ナバルノのフィクスの手元に積み上がり始めていた。
(赤字の商会を買い取り、無駄を削ぎ落として黒字の交易網へ立て直した。……だが、本当に手に入れたのはこれだ)
フィクスは机の上の書状を静かに丸め、頭の中で東地中海世界を描く。
起こるかもしれない文明の破局に備えるための独自の海外情報網が、いま、稼働し始めた。




