073 事業買収③ (分析)
ナバルノ港の商会の帳場から戻ったその夜、コトナの自邸の執務室で、フィクスは机の上に広げられたクレオンの記録とアルキノスの調査報告に視線を落としていた。
部屋の隅にはアリタが物音ひとつ立てずに控え、卓上には冷めたハーブ茶が置かれている。夜風が中庭のオリーブの梢を揺らし、心地よい擦過音を室内に届けていた。
ジェミニの澄んだ声が滑り込んできた。
『お疲れさま、フィクス。クレオンの帳簿の数字と、アルキノスが港の連中から聞き出してきた泥臭い話を統合して、商会の全体構造をモデル化してみたわ』
「頼む。見たところ資金繰りの破綻に見えたが、根本的な病巣はどこにある?」
『ハンノ本人は「近年は新興の商人に買い叩かれ、売値が安いから利益が出ない」と思い込んでいるけれど、それは主原因じゃないわね。この商会の真の姿は、生産者から集荷し、陸を運び、計量し、壺に詰め、倉庫に寝かせ、船に乗せて海を渡り、海外の代理人が売り捌くという、一本の長いパイプラインよ。これが、きちんと機能することが事業の大前提だわ』
『でもね、仮に彼が各地の農家から仕入れた商品の価値を「百」とするじゃない? 驚くことにね、実際に正常な商品として買い手に届いて売れているのは「七十八」程度しかないのよ』
(……二割以上が途中で消えているのか)
『そう。手荒な陸上輸送による甕の破損、粗悪な壺の隙間からの油漏れ、計量や記録の杜撰さによる目減り。そして何より致命的なのが、倉庫での滞留による品質低下よ。ハンノは相場が高くなるのを待つつもりで商品を抱え込む癖があるの。だけどね、「売れないから倉庫に留め置く」→「倉庫が満杯で管理が行き届かなくなる」→「古くなった油が酸化して傷む」→「質が悪いから余計に売れなくなる」という、絵に描いたような悪循環に嵌まり込んでいるわ』
フィクスは、『倉庫内の壺、計百二十点。ですが、そのうち三割は前年の油であり、酸化が進んでおります。商品価値の再評価が必要です』というアリタが指摘していた品質低下の背景には、そうした目詰まりがあったのだ。
『さらに酷いのは情報の扱いよ。キプロスの代理人からは「島内で油が余っている」と連絡があり、テュロスからは「羊毛布が足りない」と便りが届いていた。それなのにハンノは、自分の経験と勘だけを頼りに油を仕入れ、布の手配を後回しにしていたの。「彼は、持っている情報を、仕入れや配分の判断に結びつけられていなかった」のよ』
「なるほどな。構造的な無駄を省いて回転速度を上げ、届いた情報をそのまま仕入れと出荷に反映させる仕組みを作れば、この商会は十分に息を吹き返す」
『ええ。商売としての立て直しは十分に可能よ。パイプラインを整備した上で、一度に大きな利益を得ようとする投機的な取引ではなく、利益は小さくとも確実な取引を繰り返す。そうすれば、事業が安定するし、資本効率も高まるわ』
『……でもね、フィクス。帳簿と倉庫を調べるデューデリジェンスの最後に、もう一つだけ、数字には表れない決定的な問題が残るわ』
ジェミニの声が、いつになく真剣な響きを帯びた。
『「この商売は、ハンノ本人にどの程度依存しているのか」ということよ。もし彼から事業を買い取った途端、キプロスやテュロスの代理人たちが「見知らぬ若い貴族など信用できない」と手を引いたり、馴染みの船長が寄港しなくなったらどうなる? あなたは商会を買ったつもりで、ただの古い倉庫と不良在庫を押し付けられただけになるわ』
フィクスは静かに息を吸い、深く首肯した。古代の交易において、契約書以上に重いのは人と人との間に結ばれた長年の「信義」だ。ハンノという看板をある日突然、外してしまえば、海を越えたネットワークは一瞬で瓦解しかねない。
(……なら、彼自身を繋ぎ止める条件で組むしかないな)
方針は定まった。
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二日後、再びナバルノ港の薄暗い事務所を訪れたフィクスは、机を挟んでハンノと向き合っていた。
調査を終えた資産と負債の査定に基づき、フィクスが提示した商会の評価額そのものには、ハンノも異存はなかった。長年の経営の傷みを赤裸々に暴かれながらも、不当に叩かれることなく正当に評価された数字に、老商人は悔しさと安堵が入り混じった顔をしていた。
だが、フィクスが続けた条件に、ハンノは怪訝そうに眉をひそめた。
「代価の支払いは、一括では行いません。最低保証と分割、そして成果に応じた成功報酬の組み合わせとさせていただきます」
「……何だと?」
警戒を強める老商人に、フィクスは落ち着いた声で説明を重ねた。
「代価を三段階に分けます。契約成立の場においてまず二割をお支払いします。次に、業務と帳簿、倉庫の引き継ぎが完了した段階で三割。そして残りの五割は、二年後にお支払いします。さらにその二年間の交易実績に応じて、上乗せの報奨金もお出しします」
「なぜ、すぐに全額を寄越さない」
「私が買い取りたいのは、この建屋や壺の山だけではないからです。キプロスやテュロスの代理人が引き続きこの商会と取引を続け、主要な船長や仕入先との関係が維持され、海を越えた商いが成立して初めて、この事業には価値が宿る。ですからハンノ殿、あなたには今後二年間、この商会に留まっていただきます。もちろん、その間の給与はお支払いします」
ハンノは目を見張り、じっとフィクスを見据えた。
買い取られて用済みとして放り出されるのではなく、二年間、自らの手で築いた信用が失われないよう伴走を求められているのだ。それも給与を得ながら、自らの人脈が実を結べば、二年後には当初の評価額以上の実入りが手に入る。
「……なるほどな。俺が途中で放り出したり、代理人たちが逃げ出したりすれば、残りの半分と報奨金がフイになるというわけだ」
「同時に、あなたが培ってきた繋がりが本物であれば、あなたは今現在の評価以上の果実を得て引退できるということです。私はあなたの信用と知恵に、対価を支払いたいのです」
フィクスが静かに微笑むと、ハンノの強張っていた肩から、ふっと力が抜けた。老商人の日焼けした皺だらけの顔に、苦笑と、それ以上の深い感嘆が浮かび上がる。
「参ったな。貴族の若殿どころか、海千山千の老いぼれ商人よりよほど手強い。……いいだろう。その条件で、すべて引き渡そう」
差し出されたハンノの無骨な手を、フィクスはしっかりと握り返した。




