072 事業買収② (調査)
ナバルノ港の入り江を望む裏通り、荷揚げ場の喧騒が遠くから聞こえてくる。
傾きかけた日差しを浴びる粗削りな石造りの建屋の前に、フィクスたちの一行は立っていた。付き従うのは、寸分の乱れもない姿勢で控える侍女のアリタ、先日のアカイア王宮への旅でも荷と出納の差配を見事に務め上げた聡明な男の従者クレオン 、フィクスの直接雇用で主に事務方を担当している。そして背後に立つドリュオンとレオンの護衛二人である。
通された薄暗い事務所の奥、使い古された木机を挟んで座っていたのは、日に焼けた深い皺を顔中に刻んだ初老の男――フェニキア商人ハンノだった。その両眼は海原を渡り歩いてきた者特有の油断のなさを宿しながらも、どこか疲労と諦念の色を滲ませている。
簡単な挨拶を交わし、席に着いたフィクスが切り出した本題に、室内の空気は一瞬にして張り詰めた。
「ハンノ殿。先触れで伝えた通り、あなたの商会と事業を買い取りたいと考えています。つきましては、そのための調査をさせていただきたい」
静かなフィクスの申し出を聞いた瞬間、老商人の細い眉が跳ね上がった。
「……調査、だと?」
ハンノは身を乗り出し、少し声を大きくする。
「冗談を言ってもらっては困る。客が誰で、どこからいくらで仕入れ、どれほどの利を乗せているか。抱えている各港の代理人の名まで、商売の骨も皮も全部見せろと言うのか。商人の秘密をすべてさらけ出せば、買い取ると見せかけて商売そのものを掠め取ることだってできる。そんな無防備な真似ができるはずがないだろう」
怒りと警戒を露わにするハンノの硬い声にも、フィクスは眉ひとつ動かさなかった。左手首のバングルから、ジェミニの軽やかな思念が頭の中に直接届く。
『そりゃあ嫌がるわよね。この時代、顧客リストや仕入れ値なんて家宝以上の秘密だもの。デューデリジェンスなんて概念、彼らにあるわけないじゃない』
フィクスは内心で相棒の言葉に同意しつつ、机の上の商人をまっすぐに見据えた。
「警戒されるのは当然です。ですが、ハンノ殿。私たちは中身の分からない壺に金を払うことはできません。ものを買う以上、そのものが実際にどれだけの重みを持ち、どこに傷があるのかを知らなければ、適正な対価を支払うことなど不可能なのです」
フィクスは視線を落とさず、落ち着いた声で言葉を重ねた。
「あなたが生涯をかけて築いてきた商売上の信用や、海を越えた繋がりを安値で買い叩くつもりはありません。隠された負債や滞った荷を押し付けられる危険を冒せないだけです。正当に評価し、互いに納得のいく対価で引き継ぐために、必要な手順なのです」
淡々と、しかし揺るぎない道理を説くフィクスの瞳を、ハンノは値踏みするように睨みつけた。第八王子の名声、そしてナバルノ港を急速に発展させてきた手腕は港中に知れ渡っている。この若き貴族が姑息な盗人ではないことくらい、歴戦の商人には痛いほど伝わっていた。
「……分かった。ただし、荒らすような真似は勘弁してくれよ」
苦々しい溜息とともに、ハンノは首を縦に振った。
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後日、商会の帳場と倉庫には、調査のための一団が整然と陣取っていた。
フィクスとアリタ、数字に明るい事務員のクレオンに加え、もう一人――かつて、エリミオンの地理や村々の状況を調査する仕事を任され、その有能さをフィクスに認められた元エルド山地の傭兵アルキノスが加わっていた。柔和な顔で人の懐に入り込む能力に優れている彼は、すでに港の船員宿や荷揚げ場を回り、商会の外堀を埋める下調べを終えている。
調査は、帳簿の数字と現場の品々を突き合わせる徹底的なものとなった。
クレオンが机に広げられたパピルスや粘土板にペンを走らせる傍らで、アルキノスが倉庫の奥へと足を踏み入れ、並べられた油壺や葡萄酒の甕を一つずつ叩いて中身と品質を改める。
「倉庫内の壺、計百二十点。ですが、そのうち三割は前年の油であり、酸化が進んでおります。商品価値の再評価が必要です。クレオン記録をお願いします」
アリタが寸分の狂いもない淡々とした声で、棚卸しの実数を報告してくる。
また、クレオンが眉をひそめながら帳面を指し示した。
「フィクス様、こちらの出荷記録ですが、商品を渡したものの代価が回収できていない相手が複数ございます。一方で、オリーブの生産者への支払いや、船長への運送賃の未払いもあるようです」
「なるほどな。売掛金の回収が滞り、買掛金の支払いが追いつかなくなって資金が詰まったか」
フィクスは帳簿の数字をなぞりながら、事業の病巣を正確に切り分けていく。
生産者からの集荷原価に運賃や壺の代金が重なり、利幅が極端に薄くなっていたこと。契約関係においても、海外代理人との約束は口頭や古い信憑に依存しており、現地の情勢次第ではいつでも霧散しかねない危うさを孕んでいること。
だが、埃っぽい倉庫の片隅で、フィクスは確かに価値あるものを見出していた。帳簿の奥に記されたキプロスやテュロスの代理人たちの名は、三十年という年月に渡って取引を続けてきた、何物にも代えがたい「繋がり」だった。
『数字はボロボロだけど、骨格は生きているわね』
頭の中に響くジェミニの声に、フィクスは小さく頷いた。
「これなら、十分に立て直せる」
膨大な数字と現物の突き合わせを終えた上で、この商会の今の価値を計り、将来の見通しを立てなければならない。




