070 獅子門を抜けて
王宮での交渉は、予想していた以上の成果をもたらした。王宮で幾日か過ごした後、フィクスとフィロメラは、エリミオンへの帰途につく。
城門へ向かって進む馬車に乗っていたフィクスは、御者台へ向けて声をかけた。
「すまない、門のところで一度止めてくれ」
馬車が巨石を穿った獅子門をくぐり抜け、城壁の外側へと滑り出たところで静かに停車した。
フィクスは隣に腰掛けていたフィロメラへ向き直り、穏やかに微笑みかけた。
「次に来るときは、また十年後かもしれません。もう一度、あの門を見ておきましょう」
二人は馬車を降り、乾いた坂道に並んで立った。
振り返って見上げる獅子門は、アカイア王国の武威と尚武の気風をこれ以上ないほど重厚に象徴していた。巨石を積み上げた威圧的な城壁の頂で、一本の円柱を挟んで向かい合う二頭のライオンのレリーフが、侵入者を値踏みするように睨み下ろしている。
だが、数日前にここをくぐったときの息の詰まるような緊張感は、もはや影も形もなかった。
隣に立つフィロメラの横顔にも、行きに見せた決意に満ちた張り詰めた表情はなく、どこかほどけたような柔らかさが漂っていた。灰色の石壁がどこまでも続くこの無骨な要塞宮殿を見つめながら、彼女は、潮風が吹き抜けるナバルノの青い海や、白壁に中庭の緑が映えるエリミオンの我が家を思い出しているのかもしれない。
その、彼女の穏やかな空気に誘われたのだろうか。
城壁の巨大な石の隙間から、よたよたと頼りない足取りで、二つの小さな影が転がり出てきた。
埃まみれの二匹の子猫だった。
「みゃあ」
「ミャウ」
細く頼りない声で鳴きながら、二匹は躊躇うこともなくフィロメラの足元へ駆け寄り、長衣の裾に小さな爪を立てて縋り付く。必死に前足を伸ばし、柔らかな亜麻布にしがみついて見上げてくる。
「まあ……」
フィロメラは目を丸くし、長衣の裾を気にすることもなくその場にしゃがみ込んだ。そっと指先を伸ばすと、子猫たちは待ちかねたようにその指に頭を擦りつけ、喉をごろごろと鳴らして甘えた声を上げる。
母猫の姿はどこにも見当たらない。
フィロメラは二匹の小さな頭を愛おしそうに撫でながら、困ったような、だがすがるような視線をフィクスへと見上げた。
「フィクス様……この子たち」
足元では、二匹の子猫もまた、フィロメラと示し合わせたかのように、揃ってフィクスを見上げている。大きな丸い瞳が、助けを求めるように濡れていた。
フィクスは思わず苦笑を漏らした。
(まいったな。あの猛禽のような父上との交渉より、この視線に抗うほうがよほど難しい)
背後に控えていた侍女のアリタが、寸分の狂いもない動作で懐から清潔な布を取り出し、いつでも子猫を包めるように手元に構えている。
「……エリミオンへ連れて帰ろう」
「はい! ありがとうございます、フィクス様」
フィロメラの顔に、少女のような満面の笑みが咲いた。彼女はアリタの手を借りて手際よく二匹を布で包み込むと、胸の前に大切そうに抱き上げた。温もりを感じたのか、二匹は安心して喉を鳴らし、互いに丸まって目を細めている。
「この子達の名前は、リュラと、ミナ……というのはどうでしょう」
馬車へと戻りながら、フィロメラが弾んだ声で言う。
フィクスはフィロメラの素早い名付けに戸惑いながら、高い城壁の上で静まり返る二頭の獅子像を振り返り、一拍置く。
「そうだな……。アカイアの獅子の威厳は重苦しいが、この子たちは歌うように鳴く。リュラ(竪琴)と、ミナ(素朴な葦笛)という名前は、とても似合っているね」
「リュラと、ミナ」
フィロメラはつぶやくと、満足そうに微笑み、腕の中の小さな二つの命を見つめた。
馬車の車輪が再び小気味よい音を立てて回り始め、巨大な城壁の影を背にして、アスファリア港への道を下っていく。
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二世紀後半のローマ帝国・五賢帝時代、ギリシア各地を旅した地理学者パウサニアスは、その著書『ギリシア案内記』において、奇妙な地方伝承として次のように記すことになる。
『……アカイア王宮の門上に刻まれた二頭の獅子像について、エリミオン地方では、「リュラ」と「ミナ」という愛らしい名付けがされている』
「リュラ」と「ミナ」イメージ図
地理学者パウサニアスの著書『ギリシア案内記』において、『アカイア王宮の門上に刻まれた二頭の獅子像について、エリミオン地方では、「リュラ」と「ミナ」という愛らしい名付けがされている』という記述はありません。作者の創作です。




