068 アガメムノン3世の査問①
王宮の客舎で迎えた朝は、昨夜の祝宴の喧騒が嘘のように冷え冷えとした静けさに包まれていた。
前日の夕刻、フィクスとフィロメラは父王アガメムノン三世への拝謁を果たしていた。十年越しとなる息子の里帰りと、有力豪族エリミオン領主の娘の紹介を兼ねた宴は、表面上は極めて和やかに執り行われた。大広間の長机には豚や羊の丸焼きが並び、持参した熟成葡萄酒の芳醇な香りに諸侯が舌鼓を打ち、アルケシラオスから託された上質な羊毛布や精緻な灰釉の器といった貢納の品々が披露されると、猛禽のような眼光を持つ巨漢の父王も満足げに喉を鳴らしたのである。
だが、あれはあくまで対外的な儀礼にすぎない。本番が今日であることは、二人とも初めから承知していた。
朝の光が射し込む客舎の重い扉が叩かれ、緋色の縁取りを施した長衣を纏った宮廷の家臣が姿を現した。
「第八王子フィクス殿下。王の広間へお越し願います。王がお呼びです」
家臣の声音は事務的だった。フィクスが静かに立ち上がると、隣に控えていたフィロメラもまた、濃紺の長衣の裾を整えて立ち上がる。
「お待ちを」
家臣が片手を上げ、怪訝そうに眉をひそめた。
「呼ばれておりますのはフィクス殿下お一人にございます。奥方様はこちらの居室にてお待ちいただくよう、仰せつかっております」
予想通りの制止だった。王宮の公的な査問の場にその妻を、他国の領主の娘とはいえ、同席させるいわれはない。だが、フィクスは動じず、家臣の目をまっすぐに見据えた。
「その儀なら、陛下へ言上してほしいことがある。今回、王宮から説明を求められる私の事業の運営には、エリミオン領主アルケシラオス殿との共同によるものが多大に含まれている。フィロメラはこの十年、領主家の者としてもその経緯を現場でつぶさに見てきた。彼女は領主家側の正当な証人として同席を許されるべきだ。……陛下にその旨をお伝えし、許しを得てもらえないだろうか」
家臣は戸惑ったように視線を泳がせ、フィクスと、その隣で凛として佇むフィロメラの顔を交互に見比べた。王子の言葉は単なる我が儘ではなく、エリミオン領主家の権益に関わるという正当な筋が通っている独断で撥ねつけ、地方豪族との間に角を立てるわけにはいかない。
「……畏まりました。陛下にお伺いを立ててまいります」
家臣は一礼すると、足早に廊下の奥へと去っていった。
二人が待つ間、部屋の隅に控えていたアリタが音もなく歩み寄り、フィクスの長衣の乱れをわずかに整えた。その所作には一片の動揺もなく、左手首のバングルからも、ジェミニの静かで冷徹な思念が直接頭の中へ届く。
『外には完全武装の近衛兵がずらりと並んでるわ。完全に尋問の空気ね。でも、フィロメラを同席は許されるでしょうね。王宮も、エリミオン領の正当な権益の帰属を弁明の機会もなく、決定するわけには行かないでしょうからね』
しばらくして、先ほどの家臣が息を整えながら戻ってきた。
「……陛下より、奥方様の同席をお認めになるとの仰せでございます。どうぞ、こちらへ」
フィクスとフィロメラが移動すると、アリタと男の従者が荷物を持って、その後を付いて行く。
家臣は、男の従者の荷物を見て怪訝そうな顔したが、何も言わずにフィクスとフィロメラを先導した。
案内された王の広間――メガロンの巨大な扉が開かれた瞬間、張り詰めた重圧が二人の肌を刺した。
高く吹き抜けた天井を支える太い円柱の列。中央の円形炉には熾火が赤々と燻り、薄暗い堂内の壁際には、青銅の兜と長槍を携えた衛兵たちが等間隔で直立している。一段高い玉座には、アカイア国王アガメムノン三世が、座していた。その獰猛な眼差しは、昨夜の酒の酔いなど微塵も残さず、獲物を品定めする猛禽のように鋭い。
玉座の脇には、筋肉の塊のような巨躯を誇る第一王子ヘラクレイオスが、フィクスを「穀潰し」と蔑むような冷笑を浮かべて立ち、その横には昨日出迎えに来た第二王子エウリュメドン、さらに年若い兄王子たちが居並んでいる。
そして、書記官たちが粘土板を抱えて控える筆頭に、老人の姿があった。
最高財務官プロテウス。
かつてフィクスが王宮にいた頃、武芸の才に乏しいこの第八王子が書庫の粘土板に没頭する姿を、内心の親近感をもって見守っていた宮廷書記官長である。かなりの高齢となった今もその頭脳は衰えず、王宮の財政を一手に握る重鎮としてここに据えられていた。彼に課された役目は、フィクスが語る説明の理非曲直を、国家の会計と法に基づいて厳格に聞き分けることにある。
旧知のフィクスが足を踏み入れた瞬間、プロテウスの白眉の下の眼光がわずかに揺れたが、すぐに深い皺の刻まれた顔を厳しく引き締め、鉄のように冷たい無表情へと戻った。情や昔の馴染みで庇い立てする場ではないという、老実務官としての峻厳な覚悟だった。
「第八王子フィクス、ならびにその伴侶フィロメラ、御前に」
案内した家臣が二人に告げ、後ずさりして列に戻る。
石造りの床を踏みしめる二人の足音だけが、広大な広間に静かに反響した。王の前に進み出ると、フィクスとフィロメラは息を合わせるようにして片膝をつき、深く頭を垂れた。
張り詰めた沈黙の中、玉座からアガメムノン三世の静かな威厳が二人を圧する。




