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066 海路でアカイア王宮(アスファリア港)へ

 ナバルノ港の埠頭では、出港を控えた中型帆走船の甲板に朝の涼やかな風が吹き抜けていた。


 船首と船尾が弓なりに反り上がったその木造船は、領主アルケシラオスが私有する船の一艘だった。普段はエリミオン特産の黄金色のオリーブ油や葡萄酒、粒の揃った穀物を積み、王宮への貢納や他港との連絡、あるいは領主家の使者を運ぶために使われている頑丈な船だ。


 王宮からの呼び出し状と、フィロメラの同行を決めた経緯を領主館へ伝えたとき、アルケシラオスは眉をひそめつつも即座にこの船の差配を申し出てくれた。フィクスがこの十年でナバルノ港に興した店や宿は、領主家との共同事業として組み上げられている。王宮が第8王子の蓄財をどう扱い、いかなる沙汰を下すかは、領主家の利権そのものに直結する問題だった。ましてや実の愛娘が十年の歳月を経て、初めて夫の父であるアガメムノン三世へ拝謁に赴く旅でもある。父親としては、万全の船をあてがうのが当然の判断だった。


 フィクス自身にとっても、この配慮はありがたかった。王宮の粘土板の記録で、東の重要港湾都市アスファリアの概要は頭に入っていたものの、自らの目でその港湾設備や物流の実際を確かめたいという思いはずっとくすぶっていたのだ。陸路より、海路をとるほうが観察の機会としても都合がよい。


 船倉には、いつもの交易品が控えめに積まれる代わりに、船尾側の区画に厚い亜麻布で仕切られたフィクスとフィロメラのための居住空間がゆったりと確保されていた。積み荷の大半は、王宮への手土産――熟成を深めた洞窟仕込みの葡萄酒の壺、きめ細かく織り上げられた上質な羊毛布、そして精緻な灰釉の器といった、エリミオンの豊かさを象徴する品々だった。


 表向きの旅の名目は、あくまで「娶って十年になる妻フィロメラを伴い、父王へ遅ればせながら婚姻の挨拶を捧げる」ことにある。ナバルノ港の事業に関する釈明は、挨拶の添え物にすぎない、という体裁を整えて先に王宮へ急使を走らせていた。


 それゆえ、同行する護衛もドリュオンと息子のレオンの二人だけに絞った。王宮へ里帰りする王子が、物々しい私兵を引き連れて現れれば、それだけで無用の警戒や後ろ暗さを疑われる。やましいところなど何一つないという、無言の姿勢を示すための策だった。


 その他の同行者は、荷の管理と身の回りの世話をこなす侍女のアリタ、フィクスの左手首のバングルに静かに収まっているジェミニ、そして力仕事を受け持つ男の従者二人と、フィロメラ付きの女の従者が一人という、至って小身な一行である。


「日和に恵まれましたね、フィクス様」


 舳先の方角を眺めながら、船旅の疲れを見せずに、フィロメラが潮風に髪を揺らして微笑んだ。


「ああ。これならマレア岬の風待ちも短くて済みそうだ」


 船はナバルノの滑らかな波を蹴って南へ下り、魔の難所と恐れられるペロポネソス半島南端の岬々を、驚くほど穏やかな追い風に乗って東へと回り込んでいった。


 日ごとに変わる海岸線の断崖や入江の様子を、フィクスは甲板から観察した。時折、左手首のバングルから、ジェミニの涼やかな声が頭の中に直接届く。


『あの湾の奥、良質な木材が切り出せそうね。船を寄せるには少し浅いけれど』


(そうだな。ただ、あそこに物資の集積地を作れば、山越えの街道を迂回する中継地にはなるかもしれない)


 外からは、ただ海原を静かに見つめる若き王子にしか見えないフィクスだったが、その頭の中では、この半島全体の地理と物の流れを思考していた。


 航海は終始順調で、出港から四日目の午後、船はアルゴリス湾の奥深く、巨石の防波堤が海へと突き出たアスファリア港へと滑り込んだ。


 石積みの頑丈な埠頭には、アカイア王室の直轄地たる威容を示すように、重装の槍兵たちが整然と列を成し、中央には鮮やかな緋色の長衣を纏った一団が待ち受けていた。


 先頭に立つのは、堂々たる体躯と洗練された佇まいを兼ね備えた青年――第二王子エウリュメドンだった。


「フィクス! よくぞ無事に来てくれた。海路が穏やかだったようで何よりだ」


 タラップを降りたフィクスに対し、エウリュメドンは威厳の中にも人当たりのよい柔らかな笑みを浮かべ、両手を広げて歩み寄ってきた。フィクスより八つ年上の異母兄は、武芸にも儀礼にも通じ、父王アガメムノン三世からも地方豪族との折衝を安心して任される「いかにも王子らしい王子」である。


「お久しぶりでございます、エウリュメドン兄上。出迎えの手間を取らせてしまい、恐れ入ります」


 フィクスが恭しく礼を取ると、エウリュメドンの視線はその背後、淑やかに控えるフィロメラへと移った。


「フィロメラ殿、そなたも息災であったか。十年ぶりになるか。エリミオンの館で見かけた折はまだ初々しい少女のようであったが、見違えるほど立派な奥方になられたな」


「エウリュメドン様、お懐かしゅうございます。このたびは私どものためにわざわざ港までお運びいただき、身に余る光栄に存じます」


 フィロメラが領主の娘らしい品格を崩さず、優雅に頭を下げると、エウリュメドンは満足そうに大きく頷いた。


「父上も母上も、エリミオンから届く便りを待ちわびておられたのだ。さあ、長旅の疲れもあろう。王宮までの馬車を手配してある。積んできた荷の改めは役人に任せ、王宮へ向かおうではないか」


 賑わうアスファリア港のざわめきの中、交わされる挨拶は終始和やかで、王族の里帰りにふさわしい平穏な空気に包まれていた。


 だが、兄の親しげな眼差しの奥に、値踏みするような鋭い光が微かに瞬いたのを、フィクスは見逃さなかった。

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