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065 本国(アカイア王宮)からの手紙

 海を見下ろす丘の上、潮風を遮る白い漆喰の壁に囲まれた食堂のテラス席には、昼下がりの柔らかな陽光が注いでいた。


 眼下にはナバルノの湾が一望でき、石積みの埠頭に並ぶ交易船や、荷揚げに汗を流す水夫たちの姿が豆粒のように小さく見える。十年ほど前、まだ何もない草地だったこの丘に白い布の日除けを張り、フィロメラと二人で最初の昼食をとった場所だった。いまやそこには、入港する船主や各地の富裕な商人たちが足を運ぶ、瀟洒な食堂となっている。


 今日のフィクスは、左手首のバングルを外していた。ジェミニを宿したその器は、留守を預かる侍女のアリタへと預けてある。フィロメラと向き合って話すべき大事な用件があったからだった。


 焼きたてのパンと地魚の香草焼き、干し無花果をあしらった料理を平らげたあと、卓の上には二つの灰釉のカップが置かれていた。


 フィロメラの前には、野薔薇の実と薄荷を煮出した赤みがかったハーブ茶。そしてフィクスの前には、湯気とともに深く香ばしい苦味を立ち上らせる、遠き南の地から届いたコーヒーが満たされていた。


 その独特の芳香は、わずかな風に乗って近くの席へも届いたらしい。絹の長衣をまとった裕福そうな商人が、通りかかった給仕の袖を引いた。


「おい、あちらの席の男が飲んでいる黒い湯気の立つ飲み物は何だ? 良ければ同じものを一杯もらいたいのだが」


 給仕は困ったように眉を下げ、恐縮しながら頭を下げた。


「申し訳けございません、お客様。あちらの殿方が召し上がっているものは、ご自身でお持ち込みになられた特別な煎じ豆でございまして……当店の品書にはないものでございます」


 そんなやり取りを耳に挟みながら、フィクスは苦笑して小杯を口に運んだ。一口啜ると、心地よい苦味と香が鼻を通り抜け、胸の奥の緊張をわずかに解きほぐしてくれる。


 正面に座るフィロメラは、両手で包み込んだハーブ茶の器をそっと卓に戻し、静かにフィクスを見つめていた。その瞳は、夫がただ懐旧の情に浸るためにここへ誘ったのではないことを、とっくに察しているようだった。


 フィクスは小杯を置き、居住まいを正した。


「フィロメラ。……実は、王宮から手紙が届いた」


 その一言に、フィロメラの涼やかな眉がかすかに動いた。


「アカイア王宮から……でございますか」


「ああ。ナバルノ港と、王宮の喉元にあるアスファリア港を行き来する商人たちによって、色々な噂が王宮の耳に入ったらしい」


 フィクスは視線を眼下の港へ落とし、それから妻へ戻した。


「この十年の間にナバルノ港が急速に栄え、私が商店や宿を広げ、多くの職人たちを束ねて莫大な富を手にしている……とな。王宮からは、事の次第を弁明するため、コトナからしかるべき説明の者を一人よこすようにと命じてきている」


「説明の者を……」


「だが、他人を行かせるわけにはいかない。これは私自身がアカイア王宮へ出向き、父上や兄たちに直接説明してこようと思う」


 コトナの経営とは別に、フィクス個人が様々な事業で富を築いた実態は、代理人が釈明できるほど軽いものではない。下手を打てば反逆の疑いをかけられ、エリミオンに築いた基盤そのものを取り上げられかねなかった。


 すると、フィロメラは迷いのない澄んだ声で即座に応じた。


「では、私をお連れください」


 フィクスは小さく首を横に振った。


「いや、話し合いがどう転ぶかは分からない。父上は、苛烈な方だ。王族の勝手な振る舞いと見なされれば、どんな怒りを買うか読めない。あなたを危険に晒すわけにはいかないよ」


 だが、フィロメラは退かなかった。


「お忘れですか、フィクス様」


 彼女の唇に、ふっと柔らかく、けれど揺るぎない笑みが浮かんだ。


「この丘にまだこの食堂ができる前、あちらの大きな木の下で、二人でお昼をいただいたときのことを」


「……木の下で?」


「ええ。あなたが私に、海を跳ねるイルカが彫られた、あの青銅の鏡を贈ってくださった日です」


 フィクスの脳裏に、初夏の風に白い日除けが揺れていた十年前の情景が鮮やかに蘇った。彼女の椅子を引いたことや、互いの好きなものを探り合うように話した記憶が。


「あのとき、フィクス様は私に尋ねてくださいました。『どこか行ってみたいところはありますか』と」


 フィロメラは懐かしむように目を細め、それからしっかりとフィクスの瞳を捉えた。


「私がなんと答えたか、覚えておいででしょうか。……私は、アカイア王宮の獅子門を見てみたいと申し上げました」


 あの時の少女の、控えめながらも外の世界へ憧れを抱いていた言葉を、フィクスは鮮やかに思い出した。


「それに」と、フィロメラは言葉を継いだ。


「私は嫁いで十年、一度もお義父様へご挨拶に伺っておりません。エリミオン領主の娘として、そして何よりフィクス様の妻として、王宮へ参上するのは当然の務めにございます」


 穏やかに微笑みながらも、その眼差しには確固たる決意が宿っていた。夫ひとりに重荷を背負わせ、安全なコトナでただ吉報を待つつもりなど毛頭ないという、妻としての誇りと覚悟だった。


 フィクスはしばし言葉を失い、やがて小さく息を吐いて肩の力を抜いた。


 もし自分が王宮で責めを負うことになったとしても、彼女は有力領主アルケシラオスの愛娘だ。アカイア王家といえども、フィロメラの身に危害を加えるような真似はできない、そのように考えた。


「……分かった。一緒に行こう」


 フィクスが頷くと、フィロメラの顔にぱっと花が咲くような安堵の笑みが広がった。


「ありがとうございます、フィクス様」


「ただし、長旅になる。エルド山地を越えるにせよ、船で岬を回るにせよ、平坦な道ではないからね」


「鍛冶場や港の荷改めについて回っていた私です。少々の道中など、音を上げたりはいたしません」


 頼もしく言い切る妻の姿に、フィクスは苦笑しながら再びコーヒーの器を手に取った。


 冷めかけた苦い液体を喉に流し込む。穏やかだった十年の平穏が終わりを告げ、いよいよ本国の巨大な歯車と対峙する時が近づいていた。だが、目の前の伴侶の強い眼差しを見つめていると、どんな嵐が待ち受けていようとも、決して退いてはならないのだという静かな闘志が、腹の底に湧き上がってくるのだった。


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