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064 フィロメラのとの結婚から十年後② フィクス27歳

 夜気を含んだ涼やかな風が、中庭の糸杉を静かに揺らし、列柱回廊を抜けて居宅の私室へと流れ込んでいた。


 白壁に囲まれた部屋の卓を囲むのは、四人。フィクスは丹念に淹れられた黒い液体――遠い南の地から届いた貴重なコーヒーの灰釉のカップを手に取り、立ち上る香ばしい湯気と心地よい苦味を喉へ落としていた。


 正面には、淡い燐光を放ちながら実体と見紛うばかりの等身大の姿を現したジェミニが、優雅に足を組み、手にした幻影の杯を傾けている。フィロメラは夫の隣で、干した野薔薇の実と薄荷を煮出した赤みがかったハーブ茶を両手で包み、時折立ち上る香気を楽しんでいた。そして少し後ろには、寸分の狂いもない姿勢でポットを構えたアリタが控えている。


『商売繁盛ね、フィクス。港も工房も、笑いが止まらないんじゃない?』


 ジェミニが幻影の杯を卓に置き、からかうように双眸を細めた。


「運が良かっただけさ。王子という肩書と農業改革の実績で信用ができていたから、エリミオン各地から骨のある若者や、独立を望む職人たちが集まってきてくれた。それに何より、エウメロスの窯場という成功の前例があったからね。借金でも王宮の命令でもない、『共同出資』という見慣れない仕組みを勇気を持って受け入れてくれたんだ」


『エウメロスの窯は、うまくいったというか……元々王子からの注文で、造幣っていう公共事業そのものじゃないの。最初から儲けが約束されていたようなものよ』


 ジェミニは悪戯っぽく肩をすくめ、宙に指を滑らせてこの十年の事業をなぞった。


『それに、その後に手を出した林業、製材、木工、石工だってそう。コトナの修繕や、港と領都を結ぶ街道の整備、ナバルノ港の拡張工事という公共事業にガッチリ食い込ませてるじゃない。世が世なら、完全に利益誘導とか違法行為って、非難されてもおかしくないわよ?』


 突飛な単語の並ぶジェミニの軽口に、フィロメラは驚くでもなく、口元に柔らかな笑みを浮かべた。十年に及ぶ奇妙な共同生活の中で、精霊が口にする異世界の概念や冗談を、彼女は持ち前の聡明さで「この世の道理の向こう側にある知恵」として大らかに受け止めていた。


「確かに、形だけ見ればそう言われても仕方がないね。でも、上がった利益をすべて私物化するつもりはないよ」


 フィクスは小杯を卓に置き、真剣な眼差しを向けた。


「この地にいずれ訪れるかもしれない破局に備えるための資本だ。エリミオンの大地と人々から得た富は、すべてエリミオンが生き残るための力として還元するさ」


 その言葉に、背後に控えていたアリタが鈴を転がすような声で静かに応じた。


「私財を擲ち、共同体の維持……それでこそマスターです」


『ちょっとアリタ、甘やかしすぎよ。フィクスは、結構な割合で私物化してるじゃない』


 ジェミニが呆れたように唇を尖らせ、フィクスを指さした。


『今飲んでるそのコーヒーだって、フェニキア商人たちに破格の対価を払って取り寄せさせたものだし、洞窟型ダンジョンを利用したワイナリーだってそう。港の高台に作った富裕層向けの食堂や宿も、自分が美味いものを飲みたいだけ、食べたいだけ。趣味全開じゃないの。……極めつけは、あの浄化槽付きの水洗トイレね。灰釉で焼き上げた便器に、ウォシュレットまで職人たちを総動員して作らせたんだから』


『ウォシュレット』という聞き慣れない異国の響きに、フィロメラがわずかに頬を朱に染め、俯き加減に小杯を口に運んだ。


「……あの、ウォシュレット……あれは、本当に素晴らしいものです」


 そう呟いてから、フィロメラは恥ずかしそうに視線を泳がせた。


 かつてフィクスがエウメロスや様々な職人たちを巻き込み、試行錯誤の末に生み出したその装置は、現代のように電気で動作し、ポンプで温水を噴射する代物ではない。

 あらかじめ錘を手動で巻き上げて位置エネルギーを蓄えておき、用を足した後にレバーで青銅ノズルの位置を合わせる。そしてラッチを外すことでシリンダーへ動力を伝え、水を噴出させるという物理仕掛けの構造だった。


 冬場は冷たい水が出る欠点はあったものの、それまでの処理方法に比べれば、天と地ほどの衝撃だった。一度その清涼感を味わってしまえば、もはや元の生活には戻れない魔力がある。


 領都に小さな展示場を設けてその快適さを喧伝したところ、領主アルケシラオスが最初に館への導入を決め、かなりの高額にもかかわらず、領内の豪商や有力貴族たちの間でステータスシンボルとして普及し始めていた。


「趣味と言われると身も蓋もないけれど、商売になっているんだから勘弁してよ」


 フィクスが苦笑混じりに弁明すると、フィロメラが穏やかに頷いた。


 子供には恵まれなかったが、この十年で築き上げた夫婦の絆と四人の仲は、確かなものだった。


 黒いコーヒーの最後の一滴を干す。フィクスたちが蒔いてきた無数の種は、確実に根を張り巡らせていた。

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