063 フィロメラのとの結婚から十年後① フィクス27歳
フィロメラを娶ってから、十の巡る季節が過ぎていた。
二人の間に子宝こそ恵まれなかったものの、中庭のオリーブが枝葉を広げ、年ごとに太い影を落とすようになった白壁の屋敷には、常に穏やかな空気が満ちている。実家で家政と差配の実務を叩き込まれてきたフィロメラは、いまや屋敷のみならず、コトナや港との物資の出納においても欠かせぬ伴侶となっていた。
秘密を共有したあの日から、屋敷の奥では奇妙で温かな光景が日常となっている。日暮れ時、フィクスが政庁の雑務から戻ると、フィロメラの私室から楽しげな笑い声が漏れてくることがある。ジェミニが他愛のない冗談を飛ばし、フィロメラが手にした帳簿を膝に置いて声を立てて笑い、その傍らでアリタが寸分の狂いもない動作で茶を注ぎ分けているのだ。妻と精霊とその従者による「女子会」とでも呼ぶべきその集いに、フィクスは苦笑しつつも、自らの足元が揺るぎない絆で支えられていることを実感していた。
十年の歳月は、エリミオンの土壌にも確かな実りをもたらしていた。
コトナの直轄地で試行錯誤を重ねてきた深耕や輪作、堆肥による土壌改良といった農法は、収穫増という数字をもって農民たちを説得し、いまではエリミオン全域の村々へと着実に広がりを見せている。さらにフィクスはコトナの境界の外側になだらかな丘陵を切り開き、自身の直轄地として新たな農業試験場を立ち上げていた。そこには厳重な囲いと屋根を備えた「硝石畑」が整然と築かれ、家畜の糞尿や草木灰を幾層にも積み上げた土の山から、白き結晶――新肥料の名目を纏った硝石の研究と備蓄が、誰にも悟られることなく続けられていた。
港町ナバルノの変貌は、それ以上に目覚ましいものだった。
かつては風待ちの小舟が頼りなく揺れるだけだった入り江には、いまや頑丈な石積みの突堤が幾重にも張り出し、大船の接岸を容易にしている。領主アルケシラオスの全面的な協力を得て拡張された港湾施設には、エジプトやレバントの風を孕んだ交易船が次々と滑り込み、岸壁には荷揚げの掛け声が一日中響き渡っていた。
岸辺の目抜き通りに構えた店は、いまや堂々たる大商屋の構えへと姿を変えている。並ぶ品々は、エリミオン特産の黄金色のオリーブ油や干し葡萄、精緻な焼き物だけに留まらない。キプロスの精錬銅、エジプトの香料やガラス玉、遠くシリアの染料といった異国の珍品が所狭しと並び、このナバルノに来さえすれば半島を巡らずともあらゆる取引が完結するとあって、東地中海を股にかける商人たちが競って舵を向けるようになっていた。
港の賑わいに合わせ、飲食と宿泊の場も大きく刷新された。
気安いエウポロスが切り盛りする大衆食堂と粗削りな寝床を備えた船員宿は、日々の航海に疲れた水夫たちの胃袋を安価で豪快な肉料理で満たし、夜遅くまで笑い声が絶えない。その一方で、少し離れた静かな高台には、交易を差配する荷主や各地から足を運ぶ富裕層のための専用の食堂と旅籠が設えられた。ここでは上質な家具やインテリアが配置され、客質と相まって上品な雰囲気に満ち、腕利きの料理人たちが繊細な手際で地元の魚介や滋味豊かな肉を振る舞う。美味い食事を味わい、珍しい舶来品を買い求めることだけを目的に、わざわざ領都から馬車を仕立てて通う貴族や豪商の姿も珍しくなくなっていた。
これらの店や宿はすべて、かつて陶工エウメロスと交わしたのと同じ条件――初期の再投資期間を経て、利益の三割を配当として折半し、七割は事業の拡張と蓄えに回すという契約のもと、領主アルケシラオスとフィクスとの共同出資で運営されていた。
「フィクス殿は、ただ座して地代を吸い上げる王族とは違う。土地に血を通わせ、富を何倍にも増やして戻してくれる、比類なき良き娘婿だ」
領主の館でアルケシラオスが満面の笑みでそう漏らす通り、舅からの信頼は絶大なものとなっていた。
港の雑踏や領都の市では、緑がかった陶片――「オル」が日常の商いに溶け込んでいる。麦や油を抱えて物々交換に頼る昔ながらの光景も残ってはいるが、値の張る買い物や細かな日用品のやり取りには、穴に紐を通したオルが小気味よい音を立てて掌から掌へと渡っていく。
流通の拡大に伴い、フィクスはオルの偽造と不正の防止に血を注いだ。アリタが極限の精度で彫り上げた専用の鋳型を用い、焼成には再現の極めて困難な独自の薄緑釉を施し、縁には肉眼では傷にしか見えない極小の秘密印を焼き込ませている。さらに製造枚数はすべて粘土板に克明に記録させ、型の保管には幾重にも鍵を掛けた地下倉庫を当てて厳重に管理させて、不正発行を防ぐ。利便性の裏にある信用の危うさを、フィクスは何よりも警戒していた。
領内の掌握も着実に進んでいた。
護衛のドリュオンとレオンが束ねる傭兵たちを使い、エルド山地の険しい谷合から海岸線に至るまで詳細な調査を行わせたことで、政庁の地図は飛躍的に精度を増した。その調査の過程で、フィクスは各地に埋もれている気骨ある職人――親方の下で燻り、自らの腕一本で独立を望みながらも資金のない若者たちの情報を集めさせた。
見どころのある者には、エウメロスの時と同じ条件を提示して対等な出資話を持ちかけた。林業、製材、陶工、木工、石工、皮職人、骨や角、象牙細工、海辺の製塩、そして果樹園のワイン醸造――フィクスが出資し、知恵を貸した工房は多岐にわたり、それぞれが自立した親方のもとで着実に収益を上げていた。ただし、領主家が古くから独占的な利権を握っている機織りと青銅鋳造の二分野にだけは、決して手を出さなかった。不要な摩擦を避け、舅への敬意を形骸化させないための、配慮だった。
山守や製材の職人たちを支援したことで、エルド山地に暮らす頑迷な山民たちや傭兵の村との関係は改善され、山越えの街道の治安も安定している。
また、ワインの醸造においては、思いがけない「フィクスの発見」が力を発揮していた。
数年前、領内の巡検中にフィクスが偶然発見した深い洞窟――実際には、かつてダンジョンコアであったジェミニにマナを注ぎ込み、切り拓いてもらった洞窟型のダンジョン――をワインの熟成庫とした。外気の影響を受けずにひんやりとした静寂の中で寝かされた葡萄酒は、角が取れて驚くほど芳醇な風味を宿し、ナバルノの富裕層向けの食堂や旅籠で破格の値がつく名物となった。
文字の広がりもまた、人々の生活様式を静かに変えつつあった。
フェニキア文字を土台に母音を補ったアカイア文字は、複雑怪奇な線文字Bとは比較にならぬほど習得が容易だった。商人の帳簿や職人の覚書に留まらず、かつて船大工のクレオンが始めた「生きた証を刻む」記念碑の風習は、いまや領内の平民たちの間でも誇りある慣習として定着している。安価な素焼きの板から、腕の立つ石工が丹念に鏨を入れた大理石の板、さらには富裕な豪商が発注する青銅製の豪奢な記念碑に至るまで、文字は人々の尊厳と結びついて確固たる根を下ろしていた。
そうして築き上げた日々のなかで、フィクスにとって何よりも得難い「実り」となったのは、一握りの黒い豆との巡り合いだった。
ある日、ナバルノの船着き場で、南方の海から来たという船乗りが、奇妙な干からびた木の実を売っていた。
「これを湯で煮出して飲むと、どんなに疲れ果てていても、頭の芯がしゃきっと澄んで眠気覚ましになるんだ」
船乗りが誇らしげに語る言葉に、通りかかった商人たちが胡散臭そうに鼻を鳴らすなか、フィクスの左手首のバングルが微かに脈打った。
『フィクス、嘘じゃないわ! あれ、乾燥させたコーヒーチェリーよ!』
頭の芯に直接響いたジェミニの弾んだ思念に、フィクスは内心の衝撃を悟られぬよう平然とした足取りで歩み寄ると、言い値のままにその麻袋ごと買い取った。後日、丁寧に果実の部分を除き、種だけにしたものを、手鍋で香ばしく焙煎した上で、アリタ手製のコーヒーミルで挽き、粉とした。麻布をフィルターとして、熱湯を注いだときのあの香気――前世の記憶を強烈に呼び覚ます深い苦味と芳香に、一口含んだフィクスは、歓喜の声をあげた。
しかし、残念ながら、フィロメラはお気に召さなかったようだった。
それ以来、フィクスは港に出入りする目端の利くフェニキア商人たちに、「南方の乾燥した赤黒い実」を破格のオルで買い取ると布告した。現在では不定期で、少量ではあるものの、商人が言う所の遠い南の地から、コーヒーチェリーがフィクスの屋敷へと届けられるようになった。
執務机の上に置かれた素焼きの小杯から、立ち上る黒い湯気。
フィクスはその香りを深く吸い込み、一口啜って心地よい苦味を喉に落とした。窓の外では、夕暮れの陽光を浴びながら、堅牢なコトナの大地と、その向こうに広がるナバルノの海が静かに息づいている。
十年という歳月をかけて、文明の破局を乗りきるための「方舟」の骨組みは、着実に、そして誰にも気取られぬまま太く組み上げられつつあった。
アリタ手製のコーヒーミルのイメージ図




