062 秘密の共有
秋の澄んだ陽光が、乾いた石造りの丘陵を穏やかに照らしていた。
コトナの政庁から少しばかり離れたなだらかな傾斜地に、建築中の新居が佇んでいる。大体の建築は済んだが、細かい普請は残っており、職人が出入りしている。外周を囲む頑丈な石積みの白壁は外敵や盗賊の侵入を拒むように高くそびえ立ち、通りに面した小窓は矢狭間のように細く絞られている。しかし重厚な木造りの門をくぐり抜けると、外観の険しい印象は一変し、開けた矩形の中庭を中心に、白壁の列柱回廊が静かに四方を囲む開放的な空間が広がっていた。中庭の石畳の中央には小さな水盤が据えられ、移植されたばかりの若いオリーブの木々と糸杉が、秋の風に細い梢を揺らしている。
屋根に上がれば、遠くにナバルノ湾の青い海原と、その沖を行き交う交易船の白い帆が小さく見渡せた。
回廊の奥、中庭の水盤の水音が心地よく響く広々とした部屋に、フィクスとフィロメラの二人が腰を下ろしていた。遠くから職人の声もする。壁際には侍女のアリタが静かに控えており、卓の上には、秋に収穫されたばかりの果実と、冷ましたハーブ茶の器が置かれている。領主アルケシラオスの三女として、実家の帳簿や家政を取り仕切ってきたフィロメラは、簡素な亜麻の長衣を端正に整え、新居の梁や漆喰の仕上がりを観察し、風通しの良さを肌で感じていた。
この部屋にフィクスとフィロメラ、侍女のアリタだけが入室する際には少しだけ悶着があった。フィロメラの従者が入室を許されないことに不満を示したのだ。
しかし、少しの間だけであることを明言し、「私の秘密を新しく迎える予定の家族だけに伝える」とフィロメラにだけ耳打ちすることで、従者を下がらせてもらった。
「素晴らしいお屋敷です、フィクス様。外壁は防壁として申し分なく堅牢ですが、中に入れば光がよく回り、埃や熱気も籠もりにくい。回廊の下の倉庫や貯蔵室の広さも、これなら冬越しの穀物や油壺を十分に収められます」
従者の入室を許されなかったことが無かったような明るい声でフィロメラが言う。「フィクスの秘密」に触れないことで、緊張をごまかしているのかもしれない。
「気に入ってもらえてよかった。政庁からは少し離れているけれど、ここなら静かに暮らせるし、家政の差配もしやすいはずだ」
フィクスは穏やかに微笑みながら茶を一口含み、それから器を卓に置いた。わずかに呼吸を整えると、その瞳に静かで真剣な光が宿る。
「……フィロメラ。今日は新居の確認だけでなく、あなたにどうしても打ち明けなければならない話があって来てもらった」
フィロメラは居住まいを正し、薄い青の瞳をまっすぐに向けた。領主家の実務を担ってきた彼女特有の、物事の本質を聞き逃すまいとする引き締まった表情だった。
「これから見せるものは、我が王家の父王や兄たちはおろか、神官たちも知らない。この世で私だけが抱えている、最大の秘密だ。それをお見せする前に、一つ約束する」
「約束、でございますか」
「ああ。これを見て、もしあなたが私との婚姻を恐ろしいと感じたり、受け入れられないと判断したなら、そのときは婚約を破棄して構わない。その場合でも、決してアルケシラオス殿やエリミオン領が王家から不利益を被ることがないよう、私が全責任を持って取り計らう。あなたの立場も、家の名誉も絶対に傷つけさせない。……それを誓う」
フィロメラは驚きに息を呑んだが、その視線は揺らがなかった。フィクスがただならぬ覚悟を持って語っていることを察し、静かに頷いた。
「フィクス様のお言葉、しかと胸に刻みました。……お話しください」
フィクスは左手首を覆っていた布をわずかにずらし、バングルを露わにした。
(ジェミニ、姿を現してくれ。フィロメラに紹介したい)
左手首のバングルから、ジェミニの軽やかな思念が頭の中に直接届く。
『了解よ、マスター。あんまり驚かせないように、優雅にいくわね』
次の瞬間、卓の横の空間が微かに青白く揺らめいた。
光の粒子が収束し、輪郭を結ぶ。そこに現れたのは、息を呑むほど整った容貌と、人間離れした知性を湛えた瞳を持つ、等身大の女性の姿だった。実体と見紛うばかりの精緻な光を纏いながらも、足元には影がなく、輪郭は淡い燐光を放っている。
「っ……!」
フィロメラの喉から、かすかな息の音が漏れた。
両目を見開き、全身を硬直させた彼女は、椅子から滑り落ちるようにして床に膝をつき、両手を胸の前で強く組み合わせて頭を垂れた。青銅器の時代を生きる彼女にとって、空間から突如として光の姿を現す存在は、神話に語られるニュンペーか、神の使いたるダイモーンそのものだった。神聖なものへの根源的な畏怖と戦慄が、その華奢な肩をかすかに震わせている。
その横で、部屋の隅に控えていた侍女が静かに歩み寄り、完璧な角度で頭を下げた。
「フィロメラ様。突然のことで驚かせてしまい、申し訳ございません」
鈴を転がすような澄んだ、だが一切の揺らぎのない声。寸分の狂いもない彫像のような美貌を持つ侍女――アリタだった。
フィクスは床に身を縮めるフィロメラの傍らに腰を落とし、努めて穏やかな声で語りかけた。
「恐れなくていい、フィロメラ。害をなすものではないんだ。……私の左手首にあるこの器には、かつて失われた太古の知恵を司る精霊――ジェミニが宿っている。そしてそこにいるアリタは、その精霊の意志を地上で形にするための、従者なんだ」
光の姿のジェミニが、悪戯っぽく、けれど親しみやすい笑みを浮かべて小首を傾げた。
『初めまして、フィロメラ。そんなに畏まらなくていいわよ。床に額を擦りつけられるような柄じゃないしね。フィクスがいつもあなたの優秀さを褒めるものだから、私もずっと話してみたかったの』
頭上から降り注ぐ軽快で温かみのある声に、フィロメラは恐る恐る顔を上げた。光の身体を透かして中庭の緑が見える。手品や幻術ではない、人の領域を超えた存在であることは疑いようがなかった。
しかし、その圧倒的な驚愕の波が引いていくにつれ、フィロメラの明敏な頭脳の中で、これまで抱いてきた数々の疑問が一気に一本の線でつながっていった。
王宮で武芸にも秀でず、粘土板にしか興味を示さないと見下されていた第8王子が、なぜエリミオンに赴任するや否や「大旱魃に備える七策」などという農政を打ち出せたのか。なぜナバルノの港に「オル」という陶貨を巡らせ、誰も見たことのない取引の形を立ち上げることができたのか。そして、なぜ常にフィクスの背後に侍女のアリタが控えていたのか。もしかすると、以前に見せたもらった、この家の精緻な図面も――。
(すべては、この神霊の導き……太古の賢者の知恵が、フィクス様に与えられていたから……)
理屈が腑に落ちると同時に、フィロメラの胸を強く打ったのは、目の前で自分を気遣わしげに見つめるフィクスの誠意だった。
もしこの秘密が王宮のアガメムノン三世や兄たち、あるいは神官たちに知られればどうなるか。異端として断罪されるか、あるいはその知恵と力を巡って国を揺るがす血みどろの争奪戦が起きることは、領主の娘である彼女には痛いほど理解できた。一族の命運どころか、国を滅ぼしかねない最大の急所を、彼は婚姻を結ぶ前に、自分を対等な伴侶として信じて明かしてくれたのだ。
フィロメラは深く息を吸い、床から立ち上がると、フィクスの前に居住まいを正した。その瞳からはもはや恐れは消え、実務家としての冷静さと、一人の女性としての揺るぎない覚悟が宿っていた。
「……婚約を破棄するなど、ありえません」
彼女は澄んだ、力強い声で言った。
「これほどの秘密を、私のような者に打ち明けてくださったフィクス様の誠の心、深く胸に刻みました。もし私がこのことを口外し、殿下に仇なすような真似をいたしましたら、その場でアカイアの神々の雷によって身を裂かれても悔いはございません。この秘密は、私の命に代えましても、決して墓の下まで守り抜くことをお誓い申し上げます」
その真摯な言葉に、フィクスは胸を撫で下ろし、心からの笑みを漏らした。
「ありがとう、フィロメラ。あなたになら信じて話せると思っていた」
『うんうん、やっぱり見込んだ通りのしっかり者ね!』
ジェミニが満足げに腕を組み、空中でくるりと身を翻した。
『さあさあ、これで家族の紹介はおしまい。フィロメラ、これからは私もアリタも、あなたの家政と領地経営の強力な味方よ。よろしくね』
「は、はい……よろしくお願い申し上げます、ジェミニ様」
精霊のあまりにフランクな物言いに、フィロメラはまだ戸惑いを隠せない様子でぎこちなく頭を下げた。すると、それまで無表情に控えていたアリタが一歩前に進み出た。
「フィロメラ様。家政の差配や帳簿の管理、屋敷の備品調達につきましては、私からも随時報告と補佐を行います。至らぬ点があれば、何なりとご指示ください」
「アリタさん……あなたのこれまでの働き、合点がいきました。精霊の従者の方に指示を出すなど恐れ多いことですが……この屋敷を守るため、どうか力を貸してくださいね」
フィロメラが持ち前の礼儀正しさの中に親愛を込めて微笑むと、アリタもまた微かに目を細め、静かに一礼した。
中庭を渡る秋の風が、回廊に植えられたオリーブの葉をさわさわと揺らし、穏やかな光を室内に投げかけている。
新居の落ち着いた佇まいの中で、四人の間に結ばれた絆は、来るべき過酷な時代を生き抜くための、何よりも確かな礎となっていた。




