060 職人の決断
コトナの政庁にある執務室に招かれたエウメロスは、落ち着かない様子で膝の上の仕事着を擦っていた。
陶工の三男坊として、これまでは実家の片隅で泥を捏ねていた男である。フィクスから持ち込まれる便器の試作や陶貨「オル」、さらには飛ぶように売れ始めた記念碑の制作を一手に引き受けてきた。
「楽にしてくれ、エウメロス。今日は新しい仕事を言いつけるために呼んだのではない」
卓の向こうから、フィクスが穏やかな声で言った。エウメロスは幾分か肩の力を抜いた、妙な仕事が増えないことに少し安心したようだ。
「エウメロス、単刀直入に言う。君を独立させ、自分自身の窯を持たせたいと考えている」
「……お、俺の窯、ですか?」
驚きに目を見開く若き陶工に、フィクスは小さく頷いた。
「港の店や食堂が回り始め、オルの補充も、文字や数字の表も、記念碑のテラコッタも注文も増えた。君の腕と働きには感謝しているが、親父さんの窯を間借りしたままでは、これ以上仕事を捌くのは無理だろう。そこで君の独立について、三つの道を用意した」
フィクスは指を三本立て、順に折っていった。
「一つ目は、私からの出資は受けず、これまで通り親父さんの窯で働くこと。二つ目は、窯を建てる費用を私、あるいは他から借りて、何年かかけて返済していくこと。そして三つ目は、私と君とで半分ずつ資金を出し合う共同出資だ」
エウメロスにとって、理解し辛い三つ目の案について、フィクスは言葉を選びながら丁寧に説明した。
窯を築き、当面の道具や薪を揃える費用の大半はフィクスが出すが、残りはエウメロス自身の蓄えを充てること。但し、彼の技術や工房を切り盛りする経験や知識も考慮して、出した費用に関わらずに出資の比率としては半々、五分と五分とすること。最初の二年間は工房に力をつけさせるため、出た利益はすべて工房の蓄えや拡張に回し、フィクスへの分け前は一切取らないこと。そして三年目以降、経営が安定した後は、経費を引いた儲けの三割を配当として外へ出し、その半分をフィクスが受け取る――つまり、全体の利益の七割は常に工房に残るという仕組みを説明した。
エウメロスは眉間に皺を寄せ、慣れない計算に頭を悩ませるようにじっと聞き入っていた。
「今日は返事をしなくていい。家へ帰って考えてくれ。父上にも相談するといい。分からないところがあれば、次の機会に私に聞けばいい」
フィクスはそこで言葉を切り、真剣な眼差しを若き職人に向けた。
「いいかい。私が王子だからという理由で『はい』と言うのは禁止だ。君が自分で窯を持つ話なのだから、君自身が得だと思わなければ意味がない」
「……へ、へい。ありがとうございます、フィクス様」
エウメロスは深々と頭を下げ、考え込むように足早に部屋を辞去していった。
左手首の青銅のバングルから、ジェミニの軽やかな声がフィクスの頭の中に直接響いた。
『さて、あの真面目な陶工君はどれを選ぶかしらね。父親に相談したら「王族から借金なんて恐れ多い」って怒られるかもしれないわよ』
(それならそれで、彼自身の選択だ。無理に押しつけても、良い経営者には育たない)
フィクスはそう返し、静かに時を待つことにする。
数日後、初夏の陽光が政庁の庭を照らす頃、エウメロスが再び執務室を訪れた。その表情からは数日前のような戸惑いは消え、どこか腹の据わった職人の顔つきになっていた。
「フィクス様、先日の話ですが……」
「決まったかい」
「へい。三つ目の、共同出資のお話を受けさせていただきたく思います」
フィクスは表情を崩さず、静かに問いかけた。
「理由を聞かせてもらえるか」
するとエウメロスは、一歩前へ踏み出し、淀みなく自分の言葉を並べ始めた。
「一つ目の、親父の窯にそのまま残る手じゃ、結局のところ独立にはなりません。親父や兄貴たちの目を気にしながら、合間を縫ってフィクス様の仕事をするだけです」
「そうだな」
「二つ目の、金を借りて後から返す手ですが……もし窯がうまくいかなくなったり、火事で窯が崩れたりしても、借りた金は必ず返さなきゃならない。ですが、三つ目の共同出資なら、万が一の損が出たときには殿下にも一緒に損を負っていただくことになります」
フィクスは内心で小さく目を見張った。
『あらまあ』と、左手首のバングルから楽しげなジェミニの呟きが意識の底に落ちてくる。『あの子、リスク分散の本質を感覚で掴んでるじゃない』
エウメロスの言葉はそれだけに留まらなかった。
「それに、儲けの七割を工房に残していいのなら、新しい弟子をすぐに一人雇えます。何より……殿下に半分出資していただいているとなれば、俺の窯は『王子の窯』でもあります。周りの窯場や商人連中に対してこれ以上の箔づけはありませんし、王子の御威光を存分に利用させてもらえますから」
悪びれる風もなく、むしろからりと胸を張って言い切る若者の顔には、したたかな商売人の逞しさが宿っていた。
フィクスは思わず、口元を綻ばせて低く笑った。
「御威光を利用する、か。いい度胸だ。ただの職人ではなく、工房を背負う親方になるなら、それくらいの計算高さがなくては困る」
フィクスが視線を送ると、背後に控えていた侍女のアリタが、丁寧に布に包まれた硬い板を卓の上へと差し出した。
「エウメロス、君の答えに満足した。これを」
布が解かれると、そこには精緻に彫り込まれた一枚の版木があった。アリタが彫り上げたその木型には、先に確認し合った共同出資の条件――出資比率、最初の二年の無配、三年目以降の配分の割合が、アカイア文字と数字によって寸分の狂いもなく刻まれていた。
「この版木を持って帰り、工房で粘土板に写して、同じものを二枚、しっかりと焼き上げてくれ。一枚は君が持ち、もう一枚は私がこの政庁で保管する」
「粘土板を、二枚……」
「そうだ。後になって互いの取り決めを違えないための証だ。文字が読めるようになれば、君自身がいつでもこの約束を確かめられる。もし私が約束を違えようとしたら、粘土板を証拠にして訴えると良い」
エウメロスは差し出された版木を両手で押し頂き、その彫り跡を愛おしそうに撫でた。
「へい……! 最高の土を練って、絶対に割れない頑丈な板に焼き上げてみせます」
誇らしげに版木を抱えて執務室を出ていく若者の背中を見送りながら、フィクスは静かに息を吐いた。
宮殿が一方的に下す命令でも、慈悲による施しでもない。対等な計算と合意の上に結ばれる新しい産業の種が、一粒蒔かれた。




