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058 船大工の記念碑

 

 初夏の光が降り注ぐナバルノ港の店先で、木製の飾り棚の特等席には、焼き上がったばかりの平たい粘土板が立てかけられていた。


 アリタが版木を丹念に彫り上げ、窯場で香ばしい赤褐色に焼き締めさせたテラコッタの板である。そこには岬を巡る帆船とナバルノの入り江の景色が立体的に浮き彫りにされ、その余白には港の風と穏やかな海を讃える詩が、流麗なアカイア文字で刻まれていた。


 足を止めたのは、やはり交易船でやってきたフェニキアの商人たちだった。


「ほう……これは見事な細工だな。港の形がそのまま写し取られているようだ」


 初老の商人が髭をしごきながら、指先で入江の波の凹凸をなぞる。しかし、視線が添えられた文字の列に及ぶと、わずかに眉をひそめて首を横に振った。


「だが、この文字は何だ? 港を讃える言葉だそうだが、我らには読めん。どうせなら、この絵の横にフェニキアの文字で故郷の言葉を刻んでくれたなら、喜んで買うのだがな」


 店番の報告を受けたフィクスは、苦笑混じりに頷いた。


 遠く東地中海から船を操ってくる彼らにとって、未知のアカイア文字をわざわざ買い求める理由はない。だが、異郷の港の情景を持ち帰りたいという欲求そのものは本物だった。


 すぐにアリタに頼んでフェニキア文字の版木を彫り直させ、同じ景色の板に彼らの文字を刻んで並べると、これが思いのほか好評を博した。船乗りや商人がオルを使い買い求めていく。聞けば、故郷に残してきた家族や仲間に「俺は西の果てのこんな港へ行ってきたのだ」と、土産話の種に見せるのだという。


 商売としては悪くなかったが、目的である「アカイア文字の普及」という点では、まだ足踏みを続けていた。


 そんなある日の午後、港の店の店員が、少しばかり困惑した様子でコトナのフィクスの元へやってきた。


「フィクス様、少々ご相談がございまして……。店に来られたお客人が、あの焼き物の絵について尋ねてこられたのです。『頼めば、こちらの望む通りの絵や文字を入れて焼いてくれるのか』と」


「望む通りの絵、か」


 フィクスが詳しく尋ねると、その客の名はクレオンといい、ナバルノの船着き場のすぐ脇に作業場を構える船大工だという。最近になって父親を亡くし、若くして工房の跡を継いだばかりの男だった。


「その父親というのがダモンという名で、一代で工房を築き上げた腕利きの棟梁だったそうです。クレオンは大変に親父さんを尊敬していて……工房の壁に、亡き父を讃える絵と言葉を刻んだ板を飾りたいのだと」


 左手首のバングルから、ジェミニの軽やかな声がフィクスの頭の中に直接響いた。


『あら。土産物から一転して、今度は記念碑の特注依頼ね。家族への誇りや敬意……こういう感情は、実利的な帳簿の記録よりもずっと強く文字を欲しがるものよ』


(ああ。文字が広まる契機としては、案外こういうところにあるのかもしれない)


 フィクスは店員にクレオンをコトナに連れてこさせ、直接その要望を聞くことにした。


 現れたクレオンは、潮風と木屑に晒された逞しい腕を持つ若者だったが、亡き父の話をするときばかりは、切なさと誇らしさを滲ませていた。


「親父は、ろくに文字も読めない男でした。ですが、木を見る目と船の骨組みを組む腕だけは、この港の誰にも負けなかった。あんな男がここにいたのだと、工房に通う若い職人たちや、親父の船に乗る奴らにずっと忘れずにいてほしいんです」


「分かりました。あなたの思いに恥じないものを作りましょう」


 フィクスは穏やかに頷き、表と裏に刻む図案をその場で打ち合わせた。


 表面には、船台に据えられた船に向かい、黙々と槌を振るう父親の後ろ姿を描くことになった。海を見下ろす丘と入江の帆船を背に、頑丈な背中を丸め、船を造り続ける職人の姿である。


 そして裏面には、オリーブの葉を飾り、その生涯を讃えるアカイア文字を深く刻み込むことに決めた。


 中央に大きく『ダモン』の名を据え、その下に――


『〇〇王が即位した翌年生まれ』

『アガメムノン三世の治世〇〇年没』

『ナバルノの名船大工』


 そして最下部には、彼が生涯をかけて造り続けた一艘の帆船の意匠を添える。


 出来上がった木型を元にエウメロスが土を捏ね、窯の火でじっくりと焼き上げたテラコッタの記念板は、素朴でありながらも重厚な風格を漂わせていた。


 港の店に受け取りに現れたクレオンは、差し出された焼き板の表面を震える指先でなぞった。


 槌を振るうたくましい背中。板材の木目まで写し取られた彫りを見つめるうちに、男の目から大粒の涙がこぼれ落ち、赤褐色の土の肌に染みを作った。


「……親父だ。親父が、そこにいる……」


 さらに裏面を向け、整然と並ぶアカイア文字に触れる。


「クレオン殿、ここにはあなたのお父上の名と、生まれた年、旅立った年、そしてこの港で誰よりも誇り高い船大工であったことが記されています」


 フィクスの言葉に、クレオンは何度も力強く頷いた。


「ありがとうございます、フィクス様……! これ以上のものはあり得ません。親父の工房の一番良い場所に掲げます」


 そう言って深く頭を下げたクレオンは、ふと思い出したように店の棚へと視線を向けた。埃を被っていたはずの、アカイア文字と数字の対照表である。


「あの……フィクス様。あの文字の表と数字の表を、十枚ずつ売っていただけないでしょうか」


「十枚もですか?」


「ええ。一族の者や工房の若い衆に配るんです。せっかく親父の名と生きた証がここに刻まれているのに、文字が読めなきゃ、何が書いてあるのか分からねえ。皆にこれを読めるようになれと、俺が親父の代わりに叩き込みます」


 クレオンは懐から惜しげもなくまとまった数のオルを取り出し、文字の表と数字の表を縄で縛り、抱えて帰っていった。


 その波紋は、フィクスの想像を超えて速やかに港へと広がっていった。


 親思いの若き棟梁が、亡き父親のために見事な記念碑を作らせたという話は、瞬く間に職人や商人、近隣の農民たちの間に知れ渡った。クレオンの工房を訪れて実物を目にした者たちは、槌を振るうダモンの背中と、裏面に誇らしく刻まれた文字の列に心を打たれた。


「俺のところの爺さんも、開墾で骨を折った立派な百姓だった」

「うちの親父が最初の交易船を出したときの記念に、何か残せないだろうか」


 自分たちの生きた証を、誇りを、土と火の力で永遠に残したいという思いが、人々の胸に芽生え始めていた。


 店には記念碑の制作を求める注文が次々と舞い込むようになり、それと歩調を合わせるようにして、棚の隅に積まれていた文字の表と数字の表が飛ぶように売れ始めた。


 自らの手で親の名を確かめ、刻まれた年号を数えたいという切実な思いが、人々を文字の学びへと向かわせていた。


 港の店の喧騒を遠くから見つめながら、フィクスは小さく息を吐いた。


「理屈で帳簿を押しつけるより、心を動かす形を与える方が、文字はずっと深く根を張るものだな」


 左手首のバングルから思念が届く。


『やっと、動き出したわね』


 船大工の記念碑 表面のイメージ図

挿絵(By みてみん)


 船大工の記念碑 裏面のイメージ図

挿絵(By みてみん)



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