057 アカイア文字の普及策
春が深まるにつれ、ナバルノ港の入り江は日ごとに賑わいを増していた。
岸壁の少し上がった一角に設けた食堂と店には、船から降りた異国の水夫や商人が足を止めるようになっている。直接オリーブ油や穀物を抱えて店の品や食事と換えようとする者もまだいたが、すぐ隣に交換所がある。店員が案内すれば、大半の者は納得して物を交換して「オル」を受け取り、改めて店先へ並び直してくれた。灰釉の滑らかな陶片が、確かな価値として港を巡り始めている。
だが、すべてが思惑通りに運んでいるわけではなかった。
コトナの居宅の卓の上には、港の店から持ち帰らせた数枚の粘土板が置かれている。粘土板に整然と焼き付けられたアカイア文字と数字の表だ。
「……やはり、まるで動かないな」
フィクスは粘土板の縁を指先で軽く撫でながら、静かに息を吐いた。
「青銅の道具や釉薬の器、布類は順調に出ています。ですが、アカイア文字の表だけは、棚の隅で埃を被るばかりですね」
控えていたアリタが、淡々とした口調で報告を重ねた。感情の起伏を感じさせない涼やかな声だが、その観察眼は港の動向を冷徹に捉えている。
原因は明白だった。港を出入りするフェニキア商人たちは、すでに自前のフェニキア文字を使いこなしている。彼らにとって遠く離れたアカイア王国の文字など学ぶ動機がない。エリミオンの商人でも目端の利く者は、すでにフェニキア文字を使える。
フィクス自身、何度か店先に立ち、この文字はフェニキア文字を参考にしつつ、アカイアの言葉にある母音を正確に書き留められるよう工夫してあるのだと説いた。昔の賢者が考案した文字だとも説いた。そうして理屈を呑み込んだごく一部の商人が、「まあ、使えるかもしれんな」と買っていった例はある。だが、そこまで説明されてようやく手に取る程度では、とても広く行き渡るとは言えなかった。
食堂の献立表や商品の価格をアカイア文字で掲げるなどはしていたが、効果は見られない。文字を識らない者にとって、文字の利便性を理解させること自体が高い壁なのだ。
姿を現したジェミニの軽やかな声で言う。
『当然の結果ね。必要に迫られていない人間に、新しい道具を押しつけても誰も買わないわよ。マスターの頭の中にある壮大な危機感なんて、彼らには見えないんだから』
「そうだよね。だから、何か工夫しないと」
フィクスは短く応じた。
王宮の書記官たちだけが独占する線文字Bによる中央集権的な王宮経済――それが、この文明の致命的な急所だった。多くの物資の収集分配と記録(帳簿)が王宮に一極集中している構造は、戦争や内乱、天災によって王宮が一度機能を失えば、広い地域の経済活動が連鎖的に停滞する脆弱さを抱えている。
オルという地域通貨を介した経済をアカイア文字は記録(帳簿)の面で補助する。オルとアカイア文字の両輪で王宮経済とは別ルートの経済活動を発展させることで、冗長性を持たせたいのだ。
更に付け加えると、いずれ訪れる破局のあと、文字そのものが失われて数百年もの暗黒時代が訪れる未来を避けるためにも、誰にでも扱える文字の普及は不可欠だった。
「何とかして、人々が自分からアカイア文字を『使ってみたい』と思わせる取っ掛かりを作らないといけないんだが……」
フィクスが呟くと、ジェミニが言う。
『そもそも線文字Bとこのアカイア文字じゃ、用途の根本が違うのよ。線文字Bは訓練された宮殿の書記官が、倉庫の羊や油の数を記録するための管理記号。それに対して、このアカイア文字は商人や職人でも、自分が口にしている話し言葉をそのまま写し取れる文字でしょう?』
その言葉に、静かに佇んでいたアリタが反応した。
「話し言葉をそのまま残せるのであれば……数字や物資の勘定だけでなく、歌や詩、あるいは語り部が口にする物語を記すことも可能ということですね」
「歌や詩、物語、か」
フィクスは卓の上の粘土板を見つめ、ふっと口元を緩めた。
「そうだな。最初から帳簿や取引の記録にこだわらなくてもいいのかもしれない。例えば……ナバルノ港の穏やかな風景と、港を讃える短い詩を一対にして粘土板に焼き付け、旅の記念の土産物として売るとかどうだ? 遠くから来た船乗りが故郷へ持ち帰る土産のようなものだ」
冗談半分で口にした言葉だった。言葉にしたとき修学旅行の土産の定番、ペナントをイメージしていた。
それから三人で、様々な案を検討したが、結局のところ、これといった決定打は見つからなかった。
「……まあ、手詰まりだな」
フィクスは椅子を引いて立ち上がり、小さく首を振った。
「急に皆が文字に感心を持ち始めるわけもない。とりあえずは、さっき冗談で言った港の風景と詩を刻んだ板を作ってみよう。港の店の一番目立つ場所に飾っておくんだ。文字そのものに興味を持ってもらうための、呼び水くらいにはなるかもしれない」
「陶工のエウメロスに焼成を頼む前に、粘土へ押し当てるための版木を彫る必要があるね。いつもで悪いけど、アリタにお願いできるかい?」
「承知いたしました」
アリタが静かに頭を下げた。
「頼むよ、アリタ。ナバルノの岬と船の姿に、海風を讃える言葉を添えてくれ」
「はい、マスター」
外からは、春の海風に乗って港のざわめきが微かに届いていた。
目指す道は遠く、一歩目はあまりに頼りない。それでも、泥の板の上に小さな種を蒔くことから始めるほかなかった。
港の風景粘土板イメージ図




