056 ナバルノ港 春
冬の間に吹き荒れていた荒れた海風が和らぎ、ナバルノの入り江には穏やかな春の陽光が広がっていた。風待ちの季節を終え、岬を回ってきた交易船が白く帆を膨らませて次々と船着き場へと滑り込んでくる。
岸壁の少し上がった一角に、木材と漆喰、割り石で手堅く普請された小ぶりな建物が並んでいた。
食堂と、その隣に構えた店である。まだ始まったばかりの試みゆえ、どちらも間口は三間ほどと決して大きくはない。二つの建物のすぐ脇には、小さな窓口を備えた交換所が並んでいる。冬のあいだも、営業を行っていた。料理の腕比べ大会で配られた陶貨「オル」に興味を持った近隣の農民や職人や商人が訪れたことで、厨房の動線や食器の扱い、衛生の確認を含め、食堂、店、交換所の試験的な運営を行うことができた。
店先には、フィクスがこの地で整えてきた品々が並んでいる。
灰釉を施した緑がかった器や、青銅工房で作らせた頑丈な鎌や小刀などの道具類。手触りのよい羊毛布、白く晒された亜麻布。そして、アカイア文字の表、数字の表を焼き付けた粘土板である。
船から降りてきた異国の商人や、荷を担いだ船乗りたちが、物珍しそうに店や食堂に視線を向けては通り過ぎていく。
彼らは立ち止まり、棚の布や青銅器をしげしげと眺めるものの、そこから先へは踏み込まない。宮殿の書記官を通す大口の取引でもなければ、見慣れた物々交換の市とも少し勝手が違う。ましてその隣の食堂では何やら旨そうな匂いが漂っているが、何を対価として差し出せばよいのか分からず、様子を窺うように遠巻きにするばかりだった。
「品を並べただけでは、足が止まりませんな」
背後に控えていた護衛のドリュオンが、低い声で呟いた。隣に立つ息子のレオンも、腰の短剣に手を置いたまま警戒の目を緩めない。
左手首のバングルから、ジェミニの軽やかな思念がフィクスの頭の中へ直接届く。
『まあ、港にいきなり出来た怪しげな店に、飛び込む商人はいないわね。まずは「この場所での作法」を見せてあげるべきじゃない?』
(そうだな。理屈を並べて呼び込むより、目の前で実演してみせた方が早いね)
フィクスは内心で短く応じると、従者のリュサンドロスを振り返った。
「リュサンドロス、荷を」
「かしこまりました、フィクス様」
政庁の古参であるリュサンドロスは、手慣れた所作で小さな素焼きの壺を抱え上げた。中に入っているのは、エリミオン特産の良質なオリーブ油である。
フィクスは二人の護衛を引き連れ、船乗りたちの視線を集めながら、堂々と交換所の窓口へと進んだ。リュサンドロスが窓口の木製カウンターに油壺をことりと置く。
交換所の係員は手慣れた手つきで油の量と質を確かめると、棚から紐を通した緑がかった陶片――オルを取り出した。滑らかな灰釉が光を弾く。カチャリと心地よい音を立てて、規定の枚数のオルがリュサンドロスの掌へ渡された。
周囲で立ち止まっていた商人たちの眉がわずかに動く。油という確かな価値を持つ品が、見慣れぬ美しい陶片へと形を変えた瞬間だった。
だが、フィクスの足はそこでは止まらない。
リュサンドロスにオルを持たせたまま、すぐ近くにある食堂の表に面した窓口へと歩を進め、声を掛ける。
「エウポロス、包み焼きと茶を頼む。四人分だ」
厨房の中で忙しなく手を動かしていた若者が、威勢よく顔を上げた。
「へい、毎度! フィクス様、四人前ですね」
リュサンドロスが先ほど受け取ったばかりのオルから、決められた枚数を数えてカウンターの木皿へ載せる。エウポロスはそれを受け取ると、手早く平たい陶板の上で焼かれていた薄い麦生地を取り上げた。中には香草と玉葱、そして細かく刻まれた羊肉がたっぷりと包まれている。香ばしい脂の匂いと煙が、海風に乗って港の通りへと一気に流れ出した。
さらに、深めの陶器の器に、煮出したばかりの清涼なハーブ茶が注がれる。
フィクスたちはそれらを受け取り、食堂の店先に据えられた長卓へと向かう。
海が見渡せる石敷きのテラスである。フィクスは熱を帯びた薄焼きの包み生地を手に取ると、そのまま躊躇なく口へ運んだ。
パリリと香ばしい表面が割れ、中から閉じ込められていた肉汁と香草の香りが口いっぱいに広がる。素朴だが、肉の臭みは丁寧に取り除かれており、脂の重さを香草が見事に中和していた。すかさず温かいハーブ茶を含むと、口の中の油気がすっきりと洗い流され、心地よい余韻だけが残る。
「美味いな。エウポロス、火の通し方が一段と良くなっている」
食堂から不安そうに見ていたエウポロスに声を掛ける。
「ありがとうございます!」
向かいではリュサンドロスが静かに、だが満足そうに咀嚼し、護衛のドリュオンとレオンもまた、手づかみで豪快に包み焼きにかぶりついていた。
「うまいですね、これ……皿も匙もいらないから、すぐ食える」
レオンが驚いたように目を丸くし、父のドリュオンも無言のまま力強く頷いている。
その様子を、通りの船乗りや商人たちが食い入るように見つめていた。
油の壺を窓口へ出す。
緑の陶片を受け取る。
その陶片を隣のカウンターへ差し出すと、湯気の立つ旨そうな肉料理と茶が出てくる。
言葉で制度を説明されるよりも遥かに明快に、「あの陶片が確かな価値を持ち、腹を満たす美味い食事に化ける」という現実が、彼らの目の前で実演されたのだ。
何人かの船乗りがごくりと喉を鳴らし、仲間の肩を小突いた。その視線は、すでにオープンテラスから、隣の交換所の窓口へと向かい始めている。
フィクスはハーブ茶を一口啜り、春の光に目を細めながら、内心で静かに微笑んだ。
(まずは一歩、だな)
エリミオンの小さな港で、新しい巡りが音を立てて動き始めていた。




