055 フィロメラと新居の相談
冬の乾いた光が、領主館の執務室の窓から斜めに差し込んでいた。
卓の上には、すでに冷めかけた薄い葡萄酒の杯と、ナバルノ港の食堂についての覚書が脇へ寄せられている。料理の腕比べ大会で力を貸してくれたことへの礼は滞りなく済み、港の工事の進み具合についても、アルケシラオスは満足そうに頷いていた。
本来なら、そこで退出すべき頃合いだった。
だが、部屋の空気は解けるどころか、別の方向へ妙な熱を帯び始めている。卓の反対側では、領主アルケシラオスが深く椅子に腰を預けたまま、どこか面白がるような目を向けていた。その隣には、同年代の気安さからか肘を卓に乗せかけている三男のアンティロコス、そして正面には、姿勢を正しつつもわずかに頬を染めたフィロメラが座っている。
「それで、フィクス様」
アルケシラオスが、髭の蓄えられた顎を撫でながら言った。
「公務の話が終わったのなら、次は私的な用向きですな。娘との新居について、何か考えをお持ちだとか」
「はい。春の普請に向けて、大工や石工の手配をお願いする前に、まずフィロメラ殿と建物の大枠について合意を取っておきたいと思いまして」
フィクスが落ち着いた声音で答えると、アンティロコスが小さく吹き出した。
「おいおい、フィクス。挨拶のついでに二人でこっそり相談するつもりだったんだろう? 親父が残れって言うから同席したけど、俺まで呼び止められた理由が分かったよ。これは見ものだ」
アンティロコスは、同年代の為かフィクスに対しては友達感覚で茶々を入れる。
「余計な口を挟むな、アンティロコス」
アルケシラオスが鋭く窘めたが、その視線はすぐにフィクスの手元へと戻った。
フィクスは苦笑を漏らすこともなく、控えていたアリタへ軽く視線を送った。背後に静かに立っていた侍女が、抱えていた麻布の包みを解き、平らに削り出された薄い木板を取り出して卓の上へ広げる。
その板には、煤と膠を混ぜた黒い線で、極めて精緻な図面が引かれていた。
直線の引き方ひとつ取っても、定規と糸を使って引かれたことが一目で分かる狂いのなさだった。部屋ごとの寸法を示す細かな目盛り、壁の厚み、柱の配置、さらには敷地全体の勾配まで、幾何学的な厳密さで描かれている。
ジェミニが地中海沿岸の風向や日射角度を徹底的にシミュレーションし、それをアリタが寸分の狂いもなく板の上へ定着させたものだ。もっとも、表面上は「エリミオンの気候と現地の建材に合わせた下絵」として見せてある。
「……これは、また」
身を乗り出したアルケシラオスの目が、侮りを捨てた真剣なものへと変わった。
「ずいぶんと手の込んだ図面ですな。宮殿の書記官でも、これほど細かく壁の厚みや柱の位置を書き分ける者はそうおりませんぞ」
「腕の良い大工に見せるための叩き台ですから」
フィクスは木板央の四角い空白を指先で示した。
「見ての通り、四方を厚い部屋と壁で囲み、その中心に広めの庭を抱え込む形にしています」
「中庭、ですか」
フィロメラが図面を覗き込みながら呟いた。
中庭を取り囲む住居形式は極めて古く、紀元前3000年紀の古代メソポタミアのウルをはじめ、地中海沿岸や中東で広く用いられてきた。建物の中央に中庭を設け、その周囲に居室、厨房、貯蔵室などを配置する。中庭は採光と通風の中心であり、炊事や食事、家内作業、家族の団欒にも利用された。外側の開口部を少なくして部屋を中庭に向けるため、外部から内部を見られにくく、防犯や私生活の保護にも役立つ。また、中庭の木陰や植栽は強い日差しを和らげ、風を取り込むことで暑さを軽減する。このように生活、作業、防犯、気候への適応を一つの構造で実現できる。
「ええ。王宮のような中央に炉を据える大広間ではなく、クレタの古い館や、この地方の沿岸部にある古い屋敷と同じ、中庭を中心とした造りです。外周の道路側には、人を寄せ付けない分厚い壁と、高い位置に設けた小さな明かり取りのスリット窓しか向けません。その代わり、内側の中庭に向けて開放的な柱廊を巡らせ、すべての生活動線を中庭へ繋ぎます」
フィクスは板の上の部屋割りを順になぞった。
「通りに面した外側は、石積みと日干し煉瓦を合わせて二尺――四十センチ以上の厚みを持たせます。これだけの厚みがあれば、夏場、外が酷暑になっても、その熱が壁を通り抜けて室内へ届くまでに半日近くかかります」
「半日?」
アンティロコスが首を傾げた。
「昼間の強烈な日差しで壁が温まる頃には、もう日が沈んでいます」
フィクスは淡々と理屈を解きほぐした。
「一番厳しい昼下がりの熱が室内に届くのは、外気温がすっかり下がった真夜中から明け方前です。夜間の冷え込みを和らげる暖房の代わりになり、朝になれば、今度は夜の冷気を蓄え直した壁が日中の涼しさを保ってくれる。機械も魔法も使わずに、ただ石と泥の厚みだけで、一日周期の温度変化を平らにならす仕掛けです」
アルケシラオスが感心したように低く唸った。
「なるほど……石の厚みで熱を遅らせるか。確かに古い砦の地下や、厚壁の穀物倉に入ると、昼間でもひやりとする。あれと同じ理屈ですな」
「それだけではありません。夜の間、冷えて重くなった空気は中庭の石畳の底へと沈み、溜まります。建物の高さと中庭の広さの釣合――幅を広げすぎず、壁を適度な高さにしておくことで、昼間になっても直射日光が中庭の底を照らす時間を、正午のわずかな間だけに制限できます。昨晩の冷気が、すり鉢の底のように庭に残るんです」
「だけどよ、フィクス」
アンティロコスが口を挟んだ。
「壁で四方を囲っちまったら、風が入ってこなくて蒸し風呂になるんじゃないか? 夏のエリミオンの昼下がりは、じっとしてても汗が噴き出るぞ」
「風は、外から吹き込むものだけを頼る必要はありません」
フィクスは図面の屋根と中庭の取り付き部分を指した。
「日中、屋根の上や中庭の高いところにある空気は、太陽の熱で温められて自然と上へ昇っていきます。すると、外側の分厚い壁に設けた小さな隙間や、日陰の部屋の窓から、冷涼な空気が自動的に引っ張り込まれる。中庭が巨大な煙突の役目を果たすわけです。さらに――」
フィクスは中庭の中央に描かれた丸い印を示した。
「中央に浅い水盤を据え、周囲に素焼きの壺と、柑橘や香草を植えます。水が乾いた風に触れて蒸発するとき、周囲から熱を奪うのはご存知でしょう。港の魚を冷やす壺と同じです。中庭を渡る風が水面を撫でることで温度が下がり、それが柱廊を通って各部屋へ滑り込むよう設計しています」
沈黙が部屋を満たした。
日干し煉瓦、切石、漆喰、木材。どれもエリミオンで昔から手に入るものばかりだ。突飛な建材は何一つ使われていない。それなのに、寸法の比率と空気の性質を精密に噛み合わせることで、かつてないほど理に適った住まいが組み上げられていた。
左手首のバングルから、ジェミニの声がフィクスの意識に直接落ちてくる。
『アルケシラオスは構造の堅牢性と防犯性に、アンティロコスは屋外空間の利用法に、フィロメラは実務的な生活動線に感心しているようね。プレゼンとしては合格ね』
(余計な採点はいい。それぞれの反応を見る)
フィクスが意識の内で短く返すと、まずフィロメラが口を開いた。
「……素晴らしいと思います、フィクス様」
その声には、単なる賛意以上の、所領の家政を担ってきた実務家としての冷静な視線が宿っていた。
「外に対して閉じているというのは、何より安心できます。通りを行き交う人々の視線を気にせず、中庭に糸車を出して機を織ることもできますし、料理に使う香草を庭で育てて、すぐに台所へ運ぶこともできます。何より、召使いや出入りする者たちの動きが、中庭を囲む柱廊からすべて見渡せます。家の中を切り盛りする者にとって、これほど無駄のない配置はありません」
フィロメラは図面の中の北側に描かれた一角を指先でなぞった。
「台所と貯蔵庫が北側の陽の当たらない場所にまとめられているのも合理的です。ただ……フィクス様、一つだけ気になるところがございます」
「何でしょう」
「冬の雨です。エリミオンでは、冬から初春にかけて時折、激しい雨が降ります。屋根に降った雨がすべてこの中庭へと流れ落ちてくる構造に見えますが、これだけの広さの中庭に雨水が集まれば、底に水が溜まり、周囲の柱廊や部屋の床へ水が溢れ出すのではありませんか?」
的確な指摘だった。
アルケシラオスも「ほう」と目を細め、娘の問いに頷いている。
フィクスは小さく笑みを返した。
「ええ、その通りです。中庭に雨水が逃げ場を失えば、あっという間に池になってしまいます。ですから、この石畳の下にあらかじめ傾斜をつけた陶管――排水の暗渠を埋め込む設計にしています」
フィクスは板を裏返し、アリタに別の面を示させた。そこには床下に張り巡らされる排水路の勾配と、敷地の外へ水を吐き出す経路が描かれていた。
「屋根から落ちた雨水と庭に溜まった水は、石畳の目地に設けたスリットから速やかに地下の陶管へ吸い込まれ、外の側溝へと排出されます。集中豪雨があっても、中庭に水が溜まることはありません。大工だけでなく、土木と陶工の仕事になりますが、エウメロスたちの窯なら十分な強度を持つ土管を焼けます」
フィロメラは感心したように息を吐き、納得の笑みを浮かべた。
「そこまで考えておいででしたか。それなら、雨の季節でも足元を泥で汚さずに済みますね」
すると、それまで腕を組んで聞いていたアンティロコスが、今度は不満そうに眉を寄せた。
「なあ、フィクス。感心するのは分かるし、涼しいのもありがたいがよ……ちょっと大人しすぎやしないか?」
「大人しい?」
「ああ。せっかく王子殿下がエリミオンに屋敷を構えるんだ。表の通りから見て、『おお、すげえ立派な館が建ったぞ!』って威厳を見せつけなくていいのか? 外から見たら、ただの四角い高い壁だろ。客を呼んで中庭で酒を飲むのは最高に気持ちよさそうだが、通りを歩いてる奴らには、中にどんな豪勢な庭があるのかすら見えないじゃないか」
「見せる必要はないんですよ、アンティロコス」
フィクスは平然と答えた。
「私は武勇を誇る武将でもなければ、この地の領主でもありません。目立つ外見にして余計なやっかみを買うより、外側は素っ気ないほど頑丈にしておいて、内側で静かに暮らせる方がいい。それに、外から様子が窺えないということは、警備の面でも有利です。侵入できる場所は正面の一箇所の頑丈な門しかありませんから」
フィクスは本来は引きこもりたい。だから壁に囲まれた中庭住宅を選んだ。アンティロコスのような意見もあるだろう。今日はおそるおそるフィロメラの反応を伺いに来たのだ。
「まあ、確かにな……。親父の館みたいに、あちこちに扉や窓があると見張りの配置だけで一苦労だしな」
アンティロコスはあっさりと引き下がり、今度は図面の中庭の片隅を指差した。
「じゃあ、この中庭の隅の空間は何だ? ここは武器の手入れでもする場所か?」
「そこは小さな工房と、書き物をするための部屋です」
「工房か。やっぱりお前らしいな」
最後に、アルケシラオスがゆっくりと身を起こした。領主としての厳しい眼差しが、図面全体を値踏みするように撫でていく。
「フィクス様。この造り、防犯と統制の観点から見ても極めて優れておりますな」
「そう見ていただけますか」
「ええ。出入口が一箇所に絞られ、外壁が高い。これならば、万が一、港や町で不穏な騒動が起きたとしても、少数の従者だけで門を固めれば容易に持ちこたえられます。中に水盤と井戸があり、雨水を集める仕組みもあるとなれば、立て籠もるにも都合が良い。それに何より――」
アルケシラオスは娘のフィロメラを見やり、それからフィクスへと視線を戻した。
「華美な装飾で財力を誇示するのではなく、風土の利を生かして堅牢さと快適さを手に入れる。実に堅実で、現実的なお考えだ。これなら領内の大工や石工にも無理な技術を強いることなく、手堅く普請を進めさせることができるでしょう」
領主は満足そうに頷き、杯の残りを干した。
「分かりました。敷地の地均しと石工の手配は、こちらで差配いたしましょう。春の訪れとともに基礎を掘り始められるよう、段取りをつけておきます」
「ありがとうございます、アルケシラオス殿。助かります」
話がまとまり、フィクスが一礼すると、アリタが手際よく木板を麻布で包み直した。
その横顔を見ながら、左手首のジェミニが意識の底で、呆れたような、しかしどこか楽しげな呟きを落としてきた。
『――アルケシラオス閣下は完全に「要塞としての初期防御力」で評価しましたね。アンティロコスの見栄っ張りな意見は青銅器時代の貴族戦士としては極めて普通だけど、却下されて当然ね。そしてフィロメラ……排水勾配の懸念を即座に見抜くとは、なかなかの実務能力。マスターの嫁としては申し分ない観察眼かと』
(くだらない軽口を叩いてないで、エウメロスに発注する陶管の寸法をまとめてくれ)
フィクスは内心で釘を刺しながら、卓の向こうで少し照れくさそうに図面の包みを見つめているフィロメラへと、穏やかに微笑みかけた。
「フィロメラ殿。部屋の細かな棚の配置や、庭に植える果樹の種類は、また折を見て二人で決めましょう」
「はい、フィクス様。楽しみにしております」
冬の午後の光の中で、二人の新居の輪郭が、静かに、しかし確かな形をとって動き始めていた。
新居の遠景イメージ図
新居の中庭イメージ図




