053 料理の腕比べ大会④ (結果発表)
日が西へ傾き始める頃には、十の火床の火が落とされていた。
朝から広場を満たしていた肉や魚の焼ける匂いも薄れ、代わってあちこちから人の話し声が聞こえてくる。料理を食べた者は、どれが旨かった、あれは食べられなかったと勝手な品評を続け、参加者たちは片付けをしながら、時折、広場の中央に設けられた壇の方へ目を向けていた。
集計を終えた係の者が、アルケシラオスへ蝋板を渡す。
アルケシラオス、フィクス、アンティロコス、フィロメラ、主催者側の審査員が壇に並ぶと、ざわめいていた広場が少しずつ静かになった。
「これより、料理の腕比べで、優れていた者達へ褒美を与える。選定した審査員それぞれから受賞者を発表する」
係員の声が広場へ響く。
「まずは、フィロメラ様から」
名を呼ばれたフィロメラが一歩前へ出る。
「私が選んだのは――ミュリネです」
人々の間から小さなどよめきが起こった。
ミュリネは、三十六歳になる農家の妻だった。夫と三人の子を持つ自由民で、これまで料理を生業としたことは一度もない。ただ、母から受け継いだ種生地を絶やさず、家族のために毎日のパンを焼いてきた。
ミュリネは、居心地が悪そうに壇の前まで来た。領主館の料理人たちまで並ぶ大会で、自分の名が呼ばれるとは思っていなかったらしい。
フィロメラはそんな彼女へ微笑んだ。
「あなたのパンを選びました。理由は、柔らかさだけではありません。同じ種を使っても、寒い日と暖かい日では生地の具合が違う。その日の生地を見て、待つ時間も水の量も変えるのだと言っていましたね」
「今日だけではなく、何度作っても、その時々の生地を見て美味しく焼けるのでしょう。何より――」
フィロメラはそこで少し笑った。
「朝、ミュリネの焼きたてのパンをもらえると、それだけで得をした気になるでしょう。それが、あなたを選んだ理由です」
広場から拍手の代わりに歓声が上がった。
ミュリネは深く頭を下げ、褒美を受け取った。
次に前へ出たアンティロコスは、待っていたとばかりに人々を見渡した。
「私が選んだのは、エウポロス!」
呼ばれた若者が、一瞬、自分を指さした。
「俺――いえ、私ですか?」
その反応に見物人から笑いが起こる。
エウポロスは二十二歳。山間で羊を飼う家の次男で、料理人ではない。父や兄と何日も放牧地で過ごすうち、手元にある肉や麦、香草を使って手早く食事を作ることだけが妙に上手くなった若者だった。
アンティロコスは、彼が作った料理を手に取った。
薄い生地の中に、刻んだ羊肉と玉葱、香草を包んで平たく焼いたものだった。
「選んだ理由は簡単だ。旨かった。それに、面白かった」
エウポロスが顔を上げる。
「皿がなくても食える。匙もいらない。手に持って歩ける。船から荷を下ろしている男でも、店に長く座っていられない商人でも食える」
アンティロコスは包みパンを軽く持ち上げた。
「これを食べたとき、最初に思った。ナバルノの船着き場で売ったらどうなるだろう、とな」
「それで本人に、魚ならどうだと聞いた」
アンティロコスが続ける。
「そうしたら、こいつは『やってみます』と言った。だから選んだ。今ある料理が旨いだけでなく、別のものを作らせてみたいと思わせたからだ」
今度の歓声には、若者たちの声が多く混じった。
エウポロスは照れ臭そうに頭を掻きながら褒美を受け取った。
そして、フィクスの番が来た。
一歩前へ出ると、広場の視線が集まった。
「私が選んだのは、ネストルです」
少し離れた参加者の列で、ネストルの肩がわずかに動いた。
フィクスは彼が前へ出てくるのを待った。
三十八歳。海辺の村に生まれた男である。父も兄も漁師だったが、幼い頃から船酔いがひどく、とうとう漁師にはなれなかった。その代わり、母や祖母のそばで魚を捌き、塩漬けにし、干し、焼き、煮ることを覚えた。
その男が、王子の前で少し緊張した顔をして立っていた。
「私が評価したのは、魚の扱いです」
「食べる者のことを思い、焼き上げる頃合いまで考えていましたね。審査員がいつ来るのか、何度も係の者へ確認していたと聞いています」
見物人の間から笑いが漏れた。
係の男まで苦笑している。
ネストルは少しばつが悪そうだった。
「ですが、そのおかげで、私のところへ来た魚は皮が香ばしく、身にはきちんと水分が残っていました。さらに葡萄酢を添えた。脂のある魚を食べ続けても重くならず、途中で酸味を加えれば、また次の一口が欲しくなる」
フィクスはネストルを見る。
「一つ一つは、奇をてらったことではありません。ですが、火の使い方、塩、油、香草、葡萄酢、それぞれをどこまで使えば魚が一番旨くなるかを知っている。私は、そこを評価しました」
ネストルが黙って頭を下げた。
係員の声が広場へ響く。
「最後にアルケシラオス様から」
アルケシラオスが前に出る。
「領主として私が選ぶ者を発表する。テレマコス」
今度は領主館の者たちの間から声が上がった。
名を呼ばれた男は騒がず、一礼して前へ出る。
テレマコス、四十四歳。領主館の厨房に二十年以上勤め、今では料理長を補佐する立場にある。宴席も祭礼も、突然増えた来客への食事も経験してきた。今日の参加者の中では、もっとも長く料理を職業としてきた者だった。
「テレマコスを選んだ理由は、料理の味だけではない」
アルケシラオスが言った。
「今日、参加者には同じように材料と場所を与えた。だが、何人分作れとは決めなかった」
その言葉に、フィクスはわずかに苦笑した。そこは完全に自分の手落ちだった。
「多くの者は、まず審査する者へ最良の一皿を出そうとした。それは当然だ。だがテレマコスは、料理を始める前に『何人に食わせるのです』と聞いた」
テレマコスの顔は変わらない。
「答えが曖昧だと分かると、大鍋を選び、最初から多く作った。羊肉と大麦、野菜を煮込み、助手を使い、火を絶やさず、最後まで料理を出し続けた」
フィクスは審査の終盤を思い出した。
ほかの料理がなくなっていく中でも、テレマコスの鍋からは湯気が上がっていた。助手へ指示を出しながら、減った分を見て火加減を変え、食材を足す時刻まで計っていた。
「旨い一皿を作る者はいる」
アルケシラオスの声が少し強くなる。
「だが、料理とは一皿だけを作る仕事ではない。食わせるべき者すべてに、きちんと食わせることも料理人の仕事だ。人を動かし、食材を無駄にせず、火を管理し、大勢へ同じ料理を出す。その力を私は評価した」
そこでアルケシラオスは、集計を記した蝋板へ目を落とした。
「そして、皆が選んだ料理も同じだった。一般の投票でも、最も多く票を得たのはテレマコスだ」
広場が大きく沸いた。
それには理由があった。
テレマコスの羊肉と麦の煮込みは、今日ここに残った料理の中で、もっとも多くの者が実際に口にできた料理でもあった。
テレマコスは領主から褒美を受け取ると、いつもの厨房でするように静かに頭を下げた。
アルケシラオスは、しばらく四人を見てから広場へ向き直った。
「今日の腕比べを始める前、私は料理人を選ぶ催しだと思っていた」
人々の声が静まる。
「だが、どうやら少し違ったらしい」
アルケシラオスはミュリネへ目を向けた。
「毎日、家族のためにパンを焼いてきた者がいる」
次にエウポロスを見る。
「野山で羊を追いながら、手元にあるもので食事を作ってきた者がいる」
ネストルへ。
「船には乗れずとも、誰より魚を知る者がいる」
最後にテレマコスへ視線を移した。
「そして、大勢の腹を満たすことを仕事としてきた者がいる」
少し間を置いて、アルケシラオスは参加者たち全体を見渡した。
「今日、名を呼ばれなかった者の料理にも、旨いものはいくつもあった。私が知らなかった料理もあった。領主館の厨房だけを見ていては、知ることのできなかった腕もあった」
その言葉を、参加者たちは黙って聞いている。
「春になれば、ナバルノにはまた船が来る。エリミオンの者だけでなく、遠い土地から来た商人や船乗りも港へ降りる。その者たちに、ここへ来れば旨いものが食えると思わせたい。今日見つかった料理や腕が、そのために役立つことを期待している」
そこでアルケシラオスの表情が少し緩んだ。
「もっとも――私としては、領主館の料理人が一番多く票を取ったことにも満足しているがな」
広場に笑いが広がった。
テレマコスだけが困ったように頭を下げ、フィロメラは笑いを堪え、アンティロコスは隠そうともせず笑っていた。
フィクスも口元を緩めた。
料理人を探すために始めた催しだった。
だが見つかったのは、一番旨い料理を作る一人ではない。
パンを見る者。新しい食べ方を試す者。魚を知る者。大勢を食わせられる者。
春の食堂に必要なのは、そういう違う腕を持った人間たちだった。
壇の前では、家族や知人が受賞者のところへ集まり始めていた。
その向こうでは、今日食べた料理について、もう誰かが言い争っている。
「あの魚の方が旨かった」
「いや、俺は羊の煮込みだ」
「包んで焼いたやつも良かったぞ」
どうやら、領主が総評を終えても、料理の味比べそのものは当分終わりそうになかった。




