052 料理の腕比べ大会③
ネストルの皿が運ばれてきたとき、フィクスはまず魚を見た。
派手な料理ではない。炭火で焼いた魚に、器に入った温かい汁、それに葡萄酢が小さな器で添えられている。けれど、皿が置かれた瞬間に立った香りは、ここまで食べてきた料理の中でも明らかに違っていた。焼けた魚の皮と脂の香ばしさ、その奥に香草の青い香りがあり、さらに何か、ホッとする匂いが混じっている。
フィクスは魚の身を崩した。皮はぱりりと焼けているのに、身はまだ水分を失っていない。
一口食べる。
思わず、もう一度魚を見た。
焼き加減がいい。
単に火を通したのではない。審査の順番に合わせて焼き上げたのだろう。皿が運ばれてくるまでの時間まで見越している。料理人にとっては当たり前と言われればそれまでだが、大勢の料理を順番に審査する大会で、それをきちんと合わせてくるのは容易ではない。
今度は添えられた葡萄酢をほんの少し魚につけてみた。
脂の甘みが、酸味でふっと軽くなる。
もう一口。次は酢をつけずに食べ、その次にはまた少しだけつけた。食べ方を変えるたびに口の中が切り替わる。
「これはいいですね」
フィクスが口にすると、審査員の一人として同席しているフィロメラが言う。
「葡萄酢ですか」
「ええ。魚そのものはかなり脂があります。これだけでも美味しいのですが、途中で葡萄酢を使うと、また食べたくなる」
魚を酸っぱくしてしまうほどかけてはいない。食べる側に加減を任せているところもよかった。
ネストルは少し離れたところに立ち、黙ってこちらを見ていた。
フィクスは次に、汁物の器へ手を伸ばした。
温かい汁を一口含む。
そこで、手が止まった。
「……ん?」
美味しい。
それはすぐに分かった。
オリーブ油の厚みがあり、香草の香りがある。魚から出た旨味も感じる。塩気もしっかりしているのに、ただ塩辛いだけではない。
だが、フィクスが引っかかったのは味の良し悪しではなかった。
もう一口飲む。
妙に落ち着く。
こんな料理を、この世界へ来てから食べた記憶はない。それどころか、アカイア王宮で口にしてきたどの料理とも違う。それなのに、舌のどこかが知っているような気がした。
温かい汁。魚。塩気。その奥にある、何かの味と香。
しばらく考えてから、フィクスはようやく気づいた。
醤油だ。
もちろん、醤油の味そのものではない。大豆を使ったあの調味料とは香りも違えば味も違う。だが、塩だけでは出ない旨味と、発酵によって生まれた複雑な香りが、ひどく懐かしい。
かつて日本人だった頃の記憶。その後に生きた幾つもの世界で食べた料理まで、味覚に引かれるように一瞬だけ蘇った。
フィクスは器を置くと、ネストルへ目を向けた。
「あなた… ネストルでしたね」
「はい」
「この汁物に、何か特別な調味料を使いましたか?」
ほんのわずかだったが、ネストルの顔が強張った。
それを見て、フィクスは問い方を間違えたかと思った。
「悪い意味ではありません。塩と香草だけの味付けではないと思ったので、何を使ったのか気になりました」
「……少々、お待ちください」
ネストルは自分の調理場所へ戻り、小さな壺を抱えてきた。
先ほどまでの堂々とした様子とは違い、どこか躊躇いがある。
「我が家に伝わっているものです」
そう言って壺を差し出した。
「魚と塩から作ります。料理には少ししか使いません」
フィクスは受け取り、蓋を開けた。
途端に、濃密な匂いが立ち上った。
フィロメラがわずかに身を引く。
左手首から、ジェミニの声が意識の内側へ落ちてきた。
『マスター。これ、魚醤ね』
やはり。
別の者も思わず少し顔を背ける。
無理もない、とフィクスは思った。
汁に調理されて入っていたときには油や香草と馴染んでいたが、原液では随分と印象が違う。魚介を発酵させた独特の匂いが強烈に鼻へ入ってくる。
だが、少なくともフィクスにとっては、不快ではなかった。
『かなり濃いわね。でも、ちゃんと作ってある。腐敗臭とは違う』とジェミニ。
ネストルが心配そうにこちらを見ている。
「小皿を一枚いただけますか」
係の者から受け取ると、フィクスは壺を傾け、ほんの少しだけ小皿に魚醤を落とした。
「殿下?」
係の者の一人が怪訝そうに声をかけてきた。
フィクスは答えず、小皿からもう一度匂いを確かめる。
焼き魚から白い身を少し取り、それを魚醤にほんのわずかつけた。
ネストルが目を見開いた。
「あ――」
止めようとしたらしいが、もう遅い。
フィクスはそのまま口へ入れた。
塩気と共に発酵した魚の複雑な旨味。それが炭火で焼いた魚の脂と混じり合う。原液だから香りは強い。それでも、つける量さえ間違えなければ、魚そのものの味が一段濃く感じられる。
フィクスはゆっくり噛み、飲み込んだ。
「……んまい」
思わず地が出て、つい、そんな言葉が漏れた。
向かいに立つネストルの顔がおかしい。
驚いている。ネストル自身が、フィクスを見て驚いていた。
「どうしました?」
「……平気なんですか?」
「何がです?」
「いや、その……それを、そのまま……」
フィクスは小皿を見た。
「魚につけることですか?」
ネストルの視線が小皿へ落ちた。
「村の者でも、慣れていない者はしません」
それで先ほど、壺を差し出すことを躊躇ったのか。
フィクスは納得した。
他の審査員たちも、魚醤の入った小皿とフィクスを交互に見ている。どうやら王子が珍しい調味料を平然と試したことのほうが、料理そのものより意外だったらしい。
フィクスは小さく笑った。
「私には、こういう味が合うようです」
それ以上は説明しなかった。
日本で醤油を使っていた、などと言えるはずもない。
もう一度、ごく少量の魚醤を焼き魚につけて、もう一口食べる。炭火の香り。魚の脂。そこへ強い旨味と塩気が加わる。
それから温かい汁を飲んだ。
やはり、ほっとする。
懐かしさの理由が分かってしまえば、なおさらだった。
「ネストル」
「はい」
「この料理は、よく覚えておきます」
ネストルは一瞬何と答えるべきか迷ったようだったが、やがて深く頭を下げた。
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「前の奴の分で終わっちまった。また、食べられないのかよ」
くじで選ばれた、一般の審査員らしき男の独り言がフィクスの耳に届いた。
参加者には、使う食材や調理場所について細かな条件を決めた。同じ条件で腕を比べられるよう、火床まで一人ずつ用意した。
その一方で、肝心なことを決めていなかった。
審査用に何人前作るのか。
――これは、俺の失敗だったな。男の独り言を聞いたフィクスは内省した。




