051 料理の腕比べ大会②
ネストルは、火床の前にしゃがみ込み、熾火の色を見ていた。
昨日、この場所に集められた料理人は二十人いた。その中から今日の本選に残ったのは十人。領主館や裕福な家に仕える料理人もいれば、宴席のたびに村々から呼ばれる者もいた。港の船乗り相手に料理を出してきた者までいる。ネストルのように、長く魚を扱ってきた人間ばかりではない。
昨日の予選を抜けたと知らされたときは嬉しかった。だが今朝、十人分の調理場所が並んでいるのを見たときには、嬉しさより先に妙な緊張を覚えた。
どの区画にも、同じ大きさの火床がある。石と焼いた煉瓦で囲われ、その左右には串や金属棒を渡すための支持台が据えられていた。傍らには薪が積まれ、水甕と作業台、魚を洗うための容器と手を洗うための容器まで、一人分ずつ揃えられている。火掻きに使う棒や火を扱う道具、灰を掻き出す道具は、何人かで使えるよう近くにまとめられていた。
随分と几帳面なことをする、とネストルは思った。
昨日聞いたところでは、参加者が同じ条件で料理するためとのことだった。
理屈は分かる。
だが、料理する側からすれば、同じであることと使いやすいことは別だった。
ネストルはもう一度、火床を覗いた。
家で魚を焼くときは、こんなふうにはしない。いつもの炉なら、どこへ薪を差し込めば火が強くなり、どのあたりへ魚を寄せれば皮だけを焦がさずに焼けるか、考える必要さえない。手を伸ばせば水があり、器の置き場所も身体が覚えている。
ここでは、水甕に手を伸ばそうとして、一度空を掴んだ。
「……こっちか」
誰に聞かせるでもなく呟き、半歩動いて柄杓を取る。
最初はそんなことが何度かあった。
魚を洗ったあと、いつもの癖で右へ置こうとして、そこには何もない。火を見ながら手を洗おうとすれば、水の容器がいつもより遠い。薪も違う。炉そのものも、自分が長年使ってきたものより火の回り方が素直すぎた。
それでも、昼前にはもう気にならなくなっていた。
炉が違うなら、この炉を覚えればいい。
ネストルは熾火を火掻き棒で寄せ、厚いところと薄いところを作った。炎を上げて魚を炙るつもりはない。赤く落ち着いた炭の熱を使う。その上に手をかざし、すぐ引いた。少し考えてから炭を二つ、端へ退ける。
食材を選べと言われたときも、迷わなかった。
主催者が用意していたのは麦、大麦、油、野菜、香草、葡萄酒、酢、塩、それに魚、羊肉、豚肉。どれも悪くないものだった。好きなものを選び、それで料理を作る。調味料や香辛料は自分のものを持ち込んでよい。
ネストルが取ったのは魚だった。肉料理で他人と競う気など、初めからなかった。
持ってきた小さな壺の蓋を開ける。
途端に、強い匂いが立った。
隣で野菜を刻んでいた料理人が一瞬こちらを向く、ネストルは蓋を戻した。
魚を塩とともに仕込み、長く置いて取った汁だった。使い方を誤れば臭いばかりが立つが、ほんの少し加えると、塩だけでは出ない深い味になる。婆さんから作り方を教わった我が家独自の調味料だ、婆さんも婆さんの婆さんから教わったものだと言っていた。
ただし、魚に直接塗るつもりはなかった。慣れない他人には匂いが先に立つだろう。味を邪魔するかもしれない。
魚そのものは塩焼きにする。
内臓を除いて整えた魚の水気を丁寧に取り、塩を馴染ませる。その間に小さな土器へオリーブ油を入れ、刻んだ香草を加えた。そこへ魚の汁を少し。火床の端、強すぎない熱のところへ置く。
油が温まるにつれ、香草の匂いが立った。
魚の汁の癖のある香りも残っている。だが温めた油と混じり、香草が加わると、鼻につくところが少しずつ丸くなっていく。
ネストルは味を見た。
もう少し。
ほんのわずか魚醤を足し、今度はそれ以上触らなかった。
問題は魚だった。
焼くこと自体なら難しくない。問題は、いつ焼くかだ。
ネストルは顔を上げ、会場を見回した。
少し離れたところに、蝋を塗った板を持った男がいる。昨日から参加者の名前や料理について何かと書き留めている男だった。
「おい」
呼ぶと男が顔を上げた。
「俺の料理は、いつ食べる?」
「順にお出しします」
「順というのは、いつだ」
男は蝋板へ目を落とした。
「まだ少しかかります」
「少しじゃ分からん。魚は焼いてから置いておけない」
男が困った顔をした。
「では、前の二人が終わったら知らせます」
「頼む」
ネストルは魚をまだ火へ載せなかった。
周囲には、煙、炭、焼ける脂、香草、葡萄酒、魚、羊肉の匂いが混ざって漂っている。
観客のざわめきが聞こえる。
すでに料理を仕上げた参加者もいる。羊肉の焼けた匂いが流れる。大鍋を使っている男は朝から煮込み続けていた。煮込み料理なら、食べるまでの時間が空いても問題ない。
焼き魚は違う。
皮が香ばしく焼け、身の中にまだ汁が残っている、その短い間に食わせたい。冷めれば脂が重くなり、せっかく立った香りも沈む。
しばらくして、ネストルはまた男を呼び止めた。
「まだか?」
「もう一人です」
「その一人は何を作ってる」
「羊です」
「焼いてるのか、煮てるのか」
男が蝋板から顔を上げた。
「そこまで聞くのですか」
「焼き始める時を決めたい」
男はネストルの顔を見てから、前の区画を覗き込んだ。
「煮たものです。もう器へ移しています」
それなら、とネストルは魚を取った。
ここからは早かった。
串を通し、熾火の上へ渡す。
じ、と皮から音がした。
ネストルの目はもう周囲を見ていなかった。周囲の音も聞こえない。
炭の強いところへ腹側を寄せ、火の弱いところへ厚い身を逃がす。皮の表面から水分が消え、脂が浮いてくる。落ちた脂が炭へ触れ、一瞬だけ炎が立った。
すぐに魚を持ち上げる。
炎が消える。
戻す。
初めは勝手の違った火床も、もう手の内にあった。
家の炉と同じではない。それでいい。この火床ならどこが強く、どこへ逃がせばよいかは、朝から散々触って覚えた。
魚を返す。
焼けた皮の匂いが立った。
温めておいた汁を火から外し、もう一度味を見る。魚醤の塩気、オリーブ油の厚み、香草の香り。焼いた魚から出る脂と一緒になったときに、ちょうどよくなるはずだった。
「ネストル!」
蝋板の男だった。
「次です」
「分かった」
「どれくらいで――」
「待たせない。出来たらすぐ持っていく」
返事をしながら、ネストルは魚の身を指先でわずかに押した。
まだだ。
あと少し。
周囲から歓声が聞こえた。見物人が何かに沸いているらしい。広場の外では食べ物を出す店も並び、人が朝よりずっと増えていた。だが今のネストルには関係がなかった。
魚の皮が、最後にぱちりと小さく弾けた。
ネストルは串を持ち上げた。
焼き色を見る。
今だ。
皿へ移し、オリーブ油、刻んだ香草、魚醤で作ったソースの器を取る。焼いた皮の香ばしさを残すように魚の上から調整しながかける。魚のふっくらとした身と一緒に口へ入るようにした。そして、葡萄酢を入れた小さな器を焼き魚の皿に添える。
「持っていけるぞ」
蝋板の男が近づいてくる。
「魚はこれ。こっちの汁物と一緒に食ってくれ」
汁物は、魚のアラや骨、葉野菜、根菜等を煮て塩、魚醤で味付けしたものだ。魚臭さを和らげるために刻んだ香草を汁物の上に散らしている。
男が頷き、運ぶ者へ合図をした。
ネストルは思わずその背中へ声を飛ばした。
「すぐだぞ!」
男が振り返る。
「分かっています」
「置いて話なんかするなよ。熱いうちに食わせろ」
「分かっています!」
今度は少し腹を立てた声が返ってきた。
それでもネストルは、料理が審査員たちのところへ運ばれていくのを最後まで目で追った。
昨日、二十人から十人に残った。
今日、その十人の中で何番になるかは、自分では決められない。
いつもの炉でもない、いつもの水場でもない、初めて使う道具もあった。料理はすべて、家で作って食っているものだ。だが、少なくとも、自分が作れる一番うまい魚料理を出した。
それだけで満足だった。
火床の前で腰を伸ばすと、ようやく周囲の音が耳へ戻ってきた。
十の炉から上がる煙と、肉や魚の焼ける匂い。見物人の声。忙しく行き来する係の者たち。
ネストルは腕を組み、審査員の方を見た。
あとは、あいつらの舌次第だった。




