005 武術教師
拙作「ここは小惑星(絶対安全・快適)引きこもり生活」 https://ncode.syosetu.com/n1389mm/ の三人がこの物語世界に転生しました。チラッと「ここは小惑星(絶対安全・快適)引きこもり生活」を読んでいただければ三人のキャラクターが分かるかと思います。
朝食を終えたフィクスは、最後に残っていた水を飲み干すと、杯を卓へ戻した。
昨日一日で、王宮の中を流れる水や食料、人の働き方については、ほんの入口だけだが見ることができた。夜になって三人で話してみれば、それらの背後には必ず、物資を数え、行き先を決め、記録している人間がいるはずだというところまで考えが進んでいる。倉庫の前で見かけた粘土板も、その仕組みの一部なのだろう。今日はそこへ近づいてみるつもりだった。いきなり宮廷書記官長のような大物を訪ねるのではなく、まずは実際に倉庫や配給を扱っている書記官を見つける。十三歳の第八王子が物珍しさから覗きに来た程度に思われるなら、その方が都合がいい。
アリタが食器を片づけている間に、フィクスは立ち上がった。
「昨日、倉庫の近くにいた書記官から当たってみようか」
アリタが手を止めずに答える。
「よろしいかと思います。まず実務を行っている者から話を聞く方が、不自然ではありません」
左手首からジェミニの声が響いた。
『粘土板も近くで見られるかもしれないしね』
「読める?」
『見せてもらえれば解析するよ。でも、いきなり全部読める顔はしない方がいいんじゃない?』
「それは俺も分かってる」
昨日の自分は、貯水槽を見たがり、便所の仕組みを気にし、浴室まで覗いて歩いた。今日になって突然、書記官が扱う粘土板をすらすら読み始めれば、いくら何でもおかしい。
まずは見る。分からなければ聞く。
そのくらいでいい。
アリタが最後の器を盆へ戻したところで、廊下から足音が近づいてきた。
一人ではない。
一定の間隔で響く重い足音に、それより軽い足音が一つ重なっている。使用人が食器を下げに戻ってきたにしては妙だと思った直後、開いていた扉の向こうに人影が現れた。
先に入ってきたのは、肩幅の広い男だった。
日に焼けた顔に短く整えた髭があり、腰には剣を下げている。その後ろにはフィクスと同じくらいの年頃の少年が立っていた。もっとも、同じ十三歳といっても見た目の印象はかなり違う。少年の方がフィクスより頭半分ほど高く、肩や腕にも少年らしい細さを残しながら、立っているだけで身体の芯がしっかりしているのが分かった。
ドリュオンと、その息子のレオン。
名前が頭に浮かんだ瞬間、フィクスは二人がここへ来た理由を思い出そうとした。
だが、その必要はなかった。
「殿下」
ドリュオンは部屋へ入るなりフィクスを見据えた。礼はした。しかし、挨拶らしい挨拶はそこまでだった。
「昨日の稽古は、何をなさいました」
「……昨日?」
「私が留守にする前に申し上げたはずです。私が戻るまで、教えた型を繰り返しておくように、と」
そこでようやく、フィクスは理解した。
まずい。
昨日は朝から王宮の中を歩き回っていた。厨房を覗き、便所へ行き、貯水槽を見せてもらい、浴室まで確かめた。夕方には脚が重くなるほど歩いたというのに、武術の自主練習など一度もしていない。
「……してない」
ごまかしても仕方がないので答えると、ドリュオンの眉間の皺が深くなった。
「なぜです」
「昨日は、その……王宮の中を見て回っていて」
「それで?」
低い声だった。
フィクスは続く言葉を探したが、何を言っても言い訳にしかならない。
「忘れてた」
後ろに立っていたレオンがわずかに視線を逸らした。笑ったわけではない。ただ、何とも言えない顔になったのをフィクスは見逃さなかった。
ドリュオンはしばらく黙っていた。
怒鳴られるかと思ったが、そうはならなかった。
「殿下。私は、殿下に兄君方のような剣士になれとは申しておりません」
その言葉に、フィクスは少し意外なものを感じて顔を上げた。
ドリュオンの表情は厳しいままだった。
「人には向き不向きがあります。レオンにできることが殿下にできぬこともあるでしょう。殿下にできて、レオンにできぬこともある。それを責めるつもりはありません」
隣でレオンが黙って立っている。
転生する前のフィクスは、この少年に引け目を感じていたらしい。並んでみれば理由は分かる。背丈だけではない。立ち方一つを見ても違った。踵から頭まで身体が自然につながっていて、余計な力が入っていない。武術の心得がないフィクスにも、自分よりはるかに身体を使い慣れていることくらいは見て取れた。設定として知っていた「才能がある」という言葉が、目の前の少年を見たことで初めて実感に変わる。ドリュオンがフィクスの武術の才能を理解したうえで、最低限身を守れるよう教えていることも、フィクスには思い出せた。
しかし、ドリュオンが問題にしているのはそこではないらしい。
「できぬことを、できぬと叱っても仕方がない」
そこで男の声が一段低くなった。
「ですが、自分でやると決めたことをやらぬのは別です」
フィクスは黙った。
「私は昨日、遠方へ出るため殿下の稽古を見ることができませんでした。その代わり、殿下はご自身で稽古すると約束された。違いますか」
「……違わない」
「では、私は剣の腕を叱っているのではありません」
ドリュオンはそこで一度言葉を切った。
「約束を守らなかったことを叱っています」
それなら、反論の余地はなかった。
むしろフィクスには、その叱り方の方が堪えた。
武術が下手だと言われるのなら、この身体の才能の問題だと割り切ることもできたかもしれない。だが、昨日の行動を選んだのは自分だ。王宮を知ることに夢中になり、前のフィクスが交わしていた約束を忘れた。
しかも、その約束を守れなかった理由は、できなかったからではない。
やらなかったからだ。
「ごめん」
フィクスがそう言うと、ドリュオンの眉がわずかに動いた。
王子から素直に謝罪されるとは思っていなかったのかもしれない。それでも態度を緩めることはなく、「私に謝ることではありません」と返した。
「殿下ご自身のためになさることです」
「うん」
「ならば、本日は昨日の分も見ます」
フィクスは一瞬、その意味を理解できなかった。
「……今日?」
「はい」
「今から?」
「朝餉はお済みなのでしょう」
「済んだけど」
ドリュオンが頷く。
「では、少し腹を休めてから稽古場へ参りましょう」
フィクスは思わず左手首へ視線を落とした。
『書記官は逃げないよ』
ジェミニが楽しそうに言う。
それはそうなのだが。
昨日の夜から、今日は書記官を探して粘土板を見せてもらおうと考えていた。王宮の物資がどう管理されているのか、その入口へようやく近づけると思っていたのである。
その予定が、朝食を食べ終えたところで消えた。
「どのくらい?」
嫌な予感を覚えながら尋ねる。
「午前中いっぱいです」
「……全部?」
「昨日の分もございますので」
フィクスは天井を見上げた。
ジェミニの笑い声が頭の中だけに響く。
『マスター、文明を救う前に約束を守ろうね』
言い返したかったが、ドリュオンとレオンの前でジェミニへ返事をするわけにはいかない。
代わりにフィクスは小さく息を吐いた。
「分かった。行くよ」
ドリュオンはそこで初めて、ほんのわずかに表情を緩めた。
「それで結構です」
レオンが父親の横からフィクスを見た。以前のフィクスなら、その視線をどう受け取ったのだろう。自分より背が高く、強く、父親である教師から教わったことを簡単にこなしてしまう同い年の少年。その存在だけで劣等感を刺激されていたのかもしれない。
だが今のフィクスが気になったのは、別のことだった。
この身体は、どの程度動くのだろう。
昨日は歩くだけで脚に疲れが出た。 武術の才能がないことは分かっている。それでも、十三歳の身体がどの程度鍛えられていて、何ができて何ができないのかは、まだ自分自身でも知らない。
書記官に会うのは午後でもできる。
そう考えると、予定を潰されたという気持ちは少し薄れた。
「レオンも一緒?」
「もちろんです」
ドリュオンが答えるより先に、レオンがフィクスへ頭を下げた。
「本日もお相手いたします、殿下」
その声に嫌味はなかった。
フィクスは少年を見上げ、それから自分の腕を見た。
昨日は王宮の中身を見た。
今日はまず、自分の身体の中身を知ることになりそうだった。




