049 ある応募者
ネストルが初めて沖へ連れていかれたのは、まだ父の腰ほどまでしか背丈のなかった頃だった。
村の男たちは、少年が船に乗れるようになることを疑っていなかった。父も兄たちも漁に出る。浜で網を繕い、舟を引き上げ、やがて自分の櫂を持つようになる。それが漁師の家に生まれた男の育ち方だった。
ところが、岸が遠ざかって間もなく、ネストルは船縁にしがみついて吐いた。
父は笑った。最初は誰でもそんなものだと言った。兄たちにもからかわれた。それでも次に乗れば慣れるだろうと、何度か沖へ連れ出された。
慣れなかった。
風が穏やかな日でも、船がうねりを越え始めると腹の底がひっくり返った。網を入れる頃には立っていることさえできず、帰る頃には父に抱えられるようにして舟から降りた。
それでもネストルは、しばらく諦めなかった。
浜から戻ってくる父や兄たちの姿が好きだったからだ。日に焼けた男たちが濡れた網を担ぎ、銀色の魚を籠いっぱいに運んでくる。何が獲れた、どこまで出た、今日は潮がどうだったと話す輪の中に、自分もいつか入るものだと思っていた。
だが、十をいくつか越える頃には、誰も彼を無理に舟へ乗せなくなった。
代わりに母が言った。
「ぼうっとしてないで、こっちを持ちな」
魚の入った籠を指していた。その日から、ネストルがいる場所は少しずつ浜から家の裏手へ移っていった。母や祖母のそばで魚の腹を裂き、内臓を取り、塩を擦り込む。小さな魚は開いて日に干し、大きなものは切り分ける。
舟に乗れないから女の仕事をしている。その思いが消えなかった。同年代の少年に「また女たちと魚を開いてるのか」と揶揄われたときは、魚を捌く手が知らず知らず荒くなった。
「魚に当たるんじゃないよ」
祖母に手の甲を叩かれた。
「お前が獲った魚じゃなくても、海からもらったものには違いないんだから」
それからだった。ネストルが、魚そのものを見るようになったのは。
同じ魚でも脂の乗り方が違う。獲れたばかりのものと、半日置いたものでも味が変わる。焼いた方が旨い魚もあれば、煮た方がいい魚もある。腹の肉は柔らかいが、尾に近いところは締まっている。塩をしてすぐ火にかけるのと、しばらく置いてから焼くのとでも違った。
祖母は教えるというより、やらせた。
「食べてみな」
失敗した魚も食べさせられた。
「塩が強い」
「じゃあ、どうする」
「次は減らす」
「それだけかい」
考えて、ネストルは首を振った。
「煮るなら、水を多くする」
祖母は笑った。
それが面白くなった。
やがて母や祖母が何も言わなくても、ネストルは魚を見て扱いを変えるようになった。売った方がよいもの、すぐ食べるもの、塩にするもの。小魚も捨てなかった。頭や骨から取った汁で豆や麦を煮れば、同じ鍋でも味が変わった。
家の食事を作ることも増えた。
兄が嫁を迎え、やがてネストル自身も妻を迎えた頃には、村で魚を持て余した者が彼のところへ来るようになっていた。
「ネストル、こいつはどうしたらいい」
「焼くな。煮た方がいい。腹を出して持ってこい」
「塩干しにできるか」
「今日のうちならな」
いつの間にか、そういう男になっていた。
魚を獲ることではなく、魚を無駄なく食べ物にすることに長けた男。
それを悪く言う者はいなかった。むしろ漁の多かった日ほど頼られた。それでもネストル自身は、父や兄たちと自分を同じところに置くことができなかった。
三十八になり、妻を持ち、二人の娘の父になっても、漁師になれなかった自分が、胸のどこかに残っていた。
その冬、領主様から村へ触れが来た。
料理に腕のある者を集めるという。
身分も男女も問わない。優れた者には褒美を与え、望むなら春からナバルノ港の食堂で働く道もある。第八王子フィクスが領主アルケシラオスの協力を得て行う催しだという話は、夕方には村中へ広がっていた。
ネストルは聞いても、さほど気に留めなかった。
その日の夕食にも魚を焼いていた。火から少し離したところでじっくり熱を通し、最後だけ炭へ近づける。表から脂が浮いたところで塩を振り、もう一度火へ戻す。
妻が隣で豆をよそいながら言った。
「出てみたら?」
ネストルは魚を返した。
「何に」
「料理の腕比べに」
思わず妻を見た。
「俺が?」
「ほかに誰がいるの」
ネストルは鼻で笑った。
「領主館の料理人なんかが来るんだろう。俺が出てどうする」
「魚を料理するんでしょう」
「魚だけじゃないだろ」
「魚なら負けないじゃない」
今度は返事をしなかった。
妻もそれ以上言わず、焼き上がった魚を娘たちの前へ置いた。二人が喜んで身をほぐし始める。その様子を見てから、妻は自分の分を口へ運んだ。
「あなたより魚を旨く食べさせる人を、私は知らないよ」
ネストルの手が止まった。
妻は褒めるために言ったような顔をしていなかった。ただ、いつもの食事について当たり前のことを言ったように魚を食べている。
「……村の外を知らないだけだ」
「そうかもしれないね」
あっさり認められて、ネストルは眉を寄せた。
「だから行って確かめてくればいいじゃないか」
妻が笑った。
ネストルは黙って魚を口へ運んだ。
塩がわずかに足りなかった。
そう思った途端、妙なことに気づいた。
領主館の料理人なら、この魚をどう焼くだろう。
ナバルノ港の料理人なら。
異国の船に乗ってくる者なら。
同じ魚を渡したら、自分より旨くする者がいるのだろうか。
胸の奥に生まれたものが、怖さなのか好奇心なのか、すぐには分からなかった。
翌朝、母のところへ行くと、触れの話はもう知っていた。
「出るのかい」
「まだ決めてない」
「そうかい」
それだけだった。
ネストルは少し腹が立った。
「止めないのか」
「どうして止めるんだい」
「笑われるかもしれないだろ。漁師にもなれなかった男が、今度は料理人の真似事だ」
母はしばらく息子の顔を見ていた。
「お前はまだ、そんなことを言ってるのかい」
ネストルは目を逸らした。
母はそれ以上何も言わなかった。
帰り道、浜では兄の息子たちが網を引いていた。
ネストルは立ち止まって眺めた。昔なら、そこにいない自分のことを考えただろう。
その日は違った。
網の中で跳ねる魚を見て、どれを塩にし、どれを焼き、どれならあの仕込みに使えるかを考えている自分に気づいた。
ずっと、そうだったのかもしれない。
父や兄と同じことができなかったから、別のことを覚えた。それだけなのに自分だけがいつまでも負い目に思っていた。
家へ戻ると、妻は魚を干すための紐を直していた。
ネストルはその前にしゃがんだ。
「腕比べに出る」
妻は手を止めたが、驚いた顔はしなかった。
「そう」
「勝てるとは言ってないぞ」
「領主館からどんな奴が来るかも分からん」
ネストルは少し黙ってから、浜の方を見た。
「ただ――俺より魚を旨く食わせる奴がいるのか、一度見てみたい」
妻は笑った。
「それでいいんじゃない?」
ネストルも、ほんの少し笑った。
その夜から、家の食卓に出る魚の種類が増えた。




