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047 トークン(交換用の陶片)を『オル』と名付ける


 アルケシラオスの領主館を訪れたのは、秋も深まり、ナバルノ港へ入る船が目に見えて減ってきた頃だった。


 春になれば、また商人たちが戻ってくる。


 それまでに準備しておきたかった。


 フィクスが執務室へ通されると、アルケシラオスは卓の上に広げていた粘土板を脇へ寄せた。


「今日は、港についてお話があるとか」


「はい。お願いしたいこともあります」


 向かいへ座るよう勧められ、フィクスは礼を述べて腰を下ろした。


 ナバルノ港は領主の管理下にある。倉庫を一つ借りる程度ならともかく、新しい施設を建て、人を置き、そこで継続して取引を行うとなれば、勝手に始めるわけにはいかなかった。


「港に土地を一か所、使わせていただきたいと思っています」


「土地を?」


「春までに、いくつか建てたいものがあります」


 アルケシラオスは先を促すように黙っている。


「まず、食事を出す店です」


 一瞬、相手の眉が動いた。


「食事を?」


「ええ」


 フィクスは頷いた。


「春からナバルノ港へ来る商人が増えます。ですが今の港は、荷を下ろし、倉庫へ運び、取引を済ませる場所としては十分でも、商人が腰を落ち着けて過ごす場所はあまりありません」


「宿ならございますが」


「泊まる場所とは少し違います」


 フィクスは港で見てきた光景を思い返した。


 船から降りた者は荷を確かめ、倉庫へ行き、取引相手を探す。用が済めば、それぞれの宿や船へ戻っていく。


 商人は大勢いる。


 だが、大勢いるだけだった。


「食事をしながら、しばらく座っていられる場所を作りたいんです。商人同士が顔を合わせ、話ができるところです」


「話をさせるための店ですか」


「食事をするための店ですよ」


 フィクスはわずかに笑った。


「ただ、同じ場所に商人が集まれば、自然と話はするでしょう。どこの港で何が高い、どこでは麦が足りない、今年はどの海路が危ない、どこから良い錫が来た、商人は商人同士で、勝手に情報を交換します」


 アルケシラオスの表情が少し変わった。


 単に王子が港で食堂を経営したいという話ではないと気づいたらしい。


「それで、商人を港へ集める?」


「それもあります」


 一度入港した商人が食事をとり、他の商人と会い、そこで新しい取引相手を知れば、予定になかった商売が生まれることもある。


 今日荷を売ったから明日出港する、ではなくなる。


「ナバルノに来れば美味しい物が食べられる。さらに商売の話が集まる。そう思ってもらえれば、最初からここを目指す商人も増えるかもしれません」


 アルケシラオスは腕を組んだ。


「なるほど。それだけなら、私にとっても悪い話ではありませんな」


「もう少しあります」


「まだございますか」


「食堂の隣に店を置きます」


 アルケシラオスが小さく息を吐いた。


「今度は何を交換するので?」


「最初は、私が作らせているものです」


「陶器ですか」


「それも」


 灰釉の試験はまだ続いている。成功したものをすぐ大量に並べられるわけではないが、春まで時間はある。


 それ以外にも考えているものはあった。


「エリミオンの職人が作ったものにかぎらず、商人が欲しがりそうなものがあれば置いていきたいと思っています」


 アルケシラオスは少し考えた。


「以前お話しになった、一つの実りに頼るな、ということですか」


「はい」


 そこはもう、長く説明する必要がなかった。


 フィロメラとアンティロコスから、大旱魃に備える七策はすでに伝わっている。


 油や葡萄酒だけではなく、陶器、織物、金属製品。外の者が欲しがるものを増やす。それを食料や必要な物資を得る力へ変える。


「他所から食べ物を得る道を持て、というのは、船が来ればそれで済む話ではありません」


 フィクスは続けた。


「こちらに来て取引したいと思う商人がいなければ、道があるとは言えないでしょう」


 アルケシラオスはゆっくり頷いた。


「それで、交易相手をナバルノへ呼び込みたいと」


「そのつもりです」


 ここまでは話が早かった。


 問題は、その先だった。


「それから、店の隣に交換所を置きたいと思っています」


「交換所?」


「私の店では品物を直接、別の品物と交換しません。店の品物が欲しい人は、一度、交換所でこちらが用意する陶片と交換してもらいます」


 フィクスは持ってきていた小さな包みを卓の上へ置いた。


 中から取り出したのは、まだ試作品にすぎない陶製の穴の開いた円盤だった。表面には簡単なオリーブの枝の意匠が施されている。


 アルケシラオスが手に取り、目を近づけて見る。


「これは?」


「この交換用の陶片をオルと名付けようと考えています」


「オル?」


「オリーブオイルを縮めた唯の造語です。大した意味はありません」


「だから、オリーブの枝の意匠が施されているのですね」


「交換所へ品物を持ってきた者に、品物に応じてオルを渡します。そして、隣の店や食堂では、オルと交換に品物を得ることができ、食事もできます」


 アルケシラオスは陶片を裏返した。何か刻印が押されているが、フィクスにそれが何かを訊くことはしなかった。意味のあるものに思えなかったのだ。


「つまり、油を持ってきてこのオルを受け取り、そのオルで食事をすることもできる?」


「できます。店の品物と交換することもできます」


「油を持ってきた者が、油を欲しがる相手を探す必要がなくなるわけですか」


「少なくとも、私の店の中では」


 フィクスはそこを強調した。


「何でも受け取るつもりはありません。交換所で扱う物も、こちらが必要とするものに限ります。それに、オルをいくつ渡すかも最初は慎重に決める必要があります」


 アルケシラオスは手の中の小さな穴の開いた円い陶片を見つめていた。


 やがて顔を上げる。


「そのオルを、港の商人同士の間でも使わせるおつもりですか?」


 フィクスは少しだけ考えてから首を振った。


「それは私が決めることではありません」


「と申されますと?」


「私が約束できるのは、このオルを持ってくれば、私の店と食堂では受け取る、ということだけです」


 フィクスはアルケシラオスの手にある陶片を指した。


「商人同士が、あれなら後で店へ持っていけば品物と交換できるから受け取ってもいい、と思うようになるかもしれません。逆に、そんなものはいらないと言うかもしれない」


「放っておくと」


「はい。私の店の外で使うかどうかは、商人たちが決めることでしょう」


 アルケシラオスの視線が再び陶片へ落ちた。


「不思議なものですな」


「まだ、ただの焼いた粘土ですよ」


「フィクス様の店が必ず物と替えると約束すれば、ただの粘土ではなくなる」


 フィクスは答えなかった。


 そこまで理解しているのなら、余計な説明は必要なかった。


 アルケシラオスはしばらく考えたあと、陶片を卓へ戻した。


「食堂ができれば、商人がそこへ集まる。商人が長く滞在すれば、その間に別の取引が生まれる。その隣にエリミオンの品を置けば、それを見る者も増える」


「そうなってくれれば、成功です」


「港へ来る船が増えれば、領内の者にも売る機会が増える」


「ええ」


「そして、いざ不作になったときには、その商人たちに穀物を持ってきてもらう」


 フィクスは頷いた。


「そのための関係を、豊作のうちから作っておきたいんです」


 アルケシラオスはそこで背もたれへ身体を預けた。


 泉を調べる。


 土地を調べる。


 種を集める。


 土を試す。


 工房を見て回り、今度は港に人を集める。


 以前なら、また別のことを始めたと思ったかもしれない。


 今は違う。


「分かりました」


 やがてアルケシラオスが言った。


「場所はこちらで用意しましょう」


 フィクスはわずかに姿勢を正した。


「よろしいのですか」


「港を栄えさせるための施設なのでしょう。でしたら、王子殿下の提案により領主が場所を用意するのは当然です」


 アルケシラオスの口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。


「ありがとうございます」


「荷揚げの邪魔にならず、倉庫からも遠すぎない場所を選ばせます。食事を出すなら水も必要でしょう。そこも見ておきます」


「助かります。建物についてはこちらで案を作ってから、もう一度お見せします」


「そうしてください」


 話がまとまったかに見えたところで、アルケシラオスは卓の上の陶片をもう一度手にした。


 先ほどまでとは違い、その表情には領主としての慎重さが戻っている。


「ただし、フィクス様」


「はい」


「一つだけ、先に決めておきたいことがあります」


 フィクスは黙って待った。


「その陶片をお使いになることには異存ありません。しかし、港で徴収しているものまで、その陶片で納められるとはなさらないでください」


 当然の懸念だった。


 港を使う船や商人から領主側が徴収するものまでオルで払えるとなれば、それは一つの店の中で使うものではなくなる。


 領主の権限そのものへ入り込む。


「もちろんです」


 フィクスはすぐに答えた。


「これは私の店が品物と交換すると約束するものにすぎません。港への納入や領主家への支払いとは関係ありません」


「将来、この陶片を受け取る商人が増えても?」


「同じです」


 フィクスは迷わなかった。


「そこを変えたくなったなら、そのときは改めてアルケシラオス殿と相談します。私の判断で決められることではありません」


 アルケシラオスはしばらくフィクスを見ていた。


 やがて頷く。


「それならば結構です」


 卓の上へ、陶製のオルが置かれた。


 小さな音がした。


 ただの焼いた粘土である。


 今のところは、フィクスの店でしか使えない。


 それで十分だった。


 最初から貨幣を作ろうとしているわけではない。港へ人を集め、品物を動かし、商人に便利だと思わせる仕組みを一つ作る。


 その結果として商人同士までオルを受け取るようになるなら、それはそのとき考えればよい。


「では、春までに間に合わせましょう」


 フィクスが言うと、アルケシラオスは少し笑った。


「また港が賑やかになりそうですな」


「できれば、昨年よりも」


「そのための店なのでしょう?」


「はい」


 窓の外では、領主館の向こうに晩秋の空が広がっていた。


 冬の間、ナバルノ港を訪れる外航船は少なくなる。


 だが、その静かな季節に場所を決め、建物を整え、品物を用意する。しなければならないことはいくらでもある。


 春に帆が湾へ戻ってきたとき、商人が荷を下ろすだけで去る港ではなく、もう一日ここにいてみようと思う港にするために。


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